正岡子規の「病床六尺」を読み終える。
これで三度目です。
「病床六尺」の中で
河東碧梧桐が賞賛する俳句を
子規が理解できず、最初は批判しようとします。
しかし子規の素晴らしいところは、
それを頭ごなしに排斥するのではなく、
どうして碧梧桐がこの句を良しとするのかを
自分でも検証しようとします。
碧梧桐のほうは
ひとつの言葉から場面や情景とがどんどん彼の頭の中で、
イメージ化されてゆき、その時
感性が大きくジャンピングして言葉が飛躍していきます。
飛躍していく時、その中間の説明的な言葉を省き
イメージからイメージへと連想が飛んでゆくおもしろさがあります。
いわゆる前衛的、シュールな句になっていくのです。
反対に子規のほうは、理論的というか理詰めで言葉のイメージを
理解しようというところがあり、
最初は碧梧桐のジャンピングについていけません。
しかし、少しずつそれを咀嚼して理解してゆき
最後には
「その趣味といい、趣味の現わしかたといい、
古今まれなる句だとかんじるようになった」と書いています。
それが
「甘酒屋 打ち出しの浜に 卸しけり」
という俳句です。
自分にはない何かを持って居る人間に会った時、
それを受け入れようとする子規の自己格闘が
素晴らしいなあ~と思います。
そしてこれは私の独断と偏見でもありますが、
もしかしたら、河東碧梧桐には、
子規をこえるような
天分の才能があったのではないかと
思います。
理屈や理論をヒョイとこえてイメージで遊ぶというような
才能です。
子規の弟子としてはもう一人
高浜虚子がいますが、
これも私の独断と偏見で言わせてもらえば
どうも、その顔を見る限り・・・苦笑
余り才能があるとは思えません・・スイマセン。
多分の河東碧梧桐のほうが頭がよかったのかな~!
虚子の顔をみると、
感情が豊かでチャイルド性が高いので
子規は虚子と話ているほうが楽しいし、
親しみを感じていたかもしれません。
が、それはあくまでに通俗的なレベルで、です。
中身が面白いのは碧梧桐の方だと私は思いますが・・・。
さて、
本当はその人物の俳句や生き方を吟味したうえで
あれこれと申し上げるのが筋ですが、
今日は遊びとして、俳人たちの
人相から、言いたい放題の品定めを書いてみようと思います。
まずは
●子規から。
どうみても、のっぺりとしたどじょう顔です…笑!
でも、彼は思考力があり、物事を一度懐に入れて熟考する聡明さを感じます。
頭が柔らかい人の顔です。
次に●漱石は、
なんだか癇癪もちの我儘坊ちゃんのようです…笑
でも鋭いし、おもしろいけど、難しいい人で、
うかうか近寄ると怪我をしそうです。
●碧梧桐は、やはり才人の顔をしています。
私の中では、ほんの少しだけですが、サルバドールダリに似た
奇怪さと軽妙さを感じます。
多分周囲の人間には、彼が考えていることが理解できないかもしれませんね。
そして●高浜虚子ですが、
この人には愛嬌のある面白さは感じますが、凡人で才能は感じません。
そして一時碧梧桐も参加していた「層雲」の主催者である
●荻原 井泉水。
もうこの人の顔は、
井泉水というその名の通り、
澄みきった水のような自分、そしてその自分に厳しい。
時にそれは
潔癖かもしれない感情の純粋性を感じます。
さらに●尾崎放哉、感度がよく敏感すぎる神経、でも
インテリのすぐこころが折れるような軟弱な、ものがあるかな~!
ただ、鋭いけれfど、人間的な豊さは感じないな~。
そして●種田山頭火
山頭火はその名のとおり、
自分の行く手に聳え立つ山を見上げながらも、
火のように激しい感情が湧いてきて、それに
振りまわされてしまう自分を抱え込んでいるように見えます。
多分この人も漱石と同じように、すぐ感情のスイッチがはいってしまい
そういう自分を持て余していたのではないかと思いますが、
だからこそ、なんとか淡白になりたちという葛藤が、
その句へと昇華されたように思います。
山頭火を見ていると、私は自分に同質のものを感じます。
私自身も長い間、自分の感情を持て余していましたからね。
まあ、ほんとに言いたい放題のことをかきましたし、
全部私の偏見と独断です。
でもね、
ここに掲げた男たちみんな
素敵です。
みんな、どこか一本の骨をもっています。
こういう骨がある男たち、
今は、いるのかな~!
いたら、最高です。
私の知らないところにいるのかもしれませんね。
勝手なことばかりをかきましたが、
いずれも、ほれぼれとする男たちでありました。

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