◆正岡子規考12,坂の上の雲!(最終回)

私にとって嬉しいことには、

あの容赦ない子規が

樋口一葉は賞賛しているのです。

「一行を読めば一行に驚き一回読めば一回に驚きぬ。」

とです。

そうだろ、そうだろ、一葉の文章は美しいです。

そして官能的です。

おそらく男には書けない、と私は思います!

一葉の官能世界は、エロ的感情でドロドロしているのとは.

違います。

美しい感性と感覚が,体の感覚と呼応するのです。

澄んだ美しさの快感で、

体が疼くのですよ!

官能でときめいているのだけれど、

男に媚びているわけではない!

そういう、

女にしかわからない、

女にしか書けない、世界を

一葉の筆が、駆け巡っているのです。

人間は、

その知性や知力が進むとものごとが明確、明瞭に見えてきます。

そして感性も、物、事、人間、社会、の質感(クオリア)に対して

磨かれ成熟していきます。

クオリアとは、

物、事、人間、社会、の表面の奥に潜んでいる、

それらの真髄を構成する、

格や質や奥行、深さ、などの本質的なものです。

人間の脳はその知力が高まると、

そういうものの本質を、言葉にできるもの、

反対に言葉にできないもの、を含めて

脳の中で認識していくのです。

子規も漱石もその高い知性と知力により、

格段の知的世界を獲得していきました。

漱石は人間となにか、その関係性について

頭の中は自由であるという確信の下に

考察を深めました。

子規は俳句や短歌、そしてその評論において

人間の感性の自由や大らかさを基に

形骸化した俳句、短歌の世界にメスをいれました。

つまり二人ともが、鋭い観察や分析によって

自分が確信したことを断定し(言い切り)、根拠にしていったのです。

その断定が進む中で、優れた認識が生まれ、

それは言葉で文脈化され、

漱石は小説へ、子規は和歌と評論へと

斬り込んだのです。

一葉もそうですね。

最後の頃の一葉は、凄みさえみせながら、

男世界を断定して、そこへ斬り込みました。

だからこそ、言葉も文脈も、

シンプルで厳しく、そして

美しいです。

そして、知性が進み、どんどん自分の中で確信が進み

さらに感性が鋭くなっている人、自分に自信がある人は、

明確な言葉を発し、その文脈もとても明瞭になります。

そういう人は、もし自分の認識に間違いがあれば、

それを恥じますから、

間違いや思い込みの勘違いには

とても率直です。

間違えがあれば、訂正すればいいことだ、くらいに

楽天的でしょう。

なんせ、人間はもともと暗渠の中を

自分という灯で照らして進むしかない、ということを

知っており、

さらに

人間は間違えて、当たり前なのですから。

子規は観察し、分類するのが得意でした。

友人達さえも観察、分類し、そのノートに書いています。

漱石は畏怖の友人とされています・・・笑!

漱石も観察し分析し、そこからの推測と展開が優れており、

小説の質を高めています。

ただ断っておきますが、

観察し分析し、あるパターンにはめこんで、

分かったつもりになるのはダメなのですね。

そうではなく、観察し、分析したあとに

それをどのように高次へと考察を重ねるかが、

重要なのですが、

それはとても孤高で、自我の感情と妥協しない、

厳しい自己世界でもあります。

そういう孤高の中を子規は歩き続け、

その坂道の上に子規が

一朶の白い雲をみていたと、

司馬さんが書いたのだと思います。

          <おわり>

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この記事を書いた人

作家。映画プロデューサー
書籍
「原色の女: もうひとつの『智恵子抄』」
「拝啓 宮澤賢治さま: 不安の中のあなたへ」
映画
「どこかに美しい村はないか~幻想の村遠野・児玉房子ガラス絵の世界より~」

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