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空海・道元・良寛の見た宇宙!

良寛から始まって道元、空海と時代をさかのぼって
読み、考えてきましたが、
空海の大きさとその情熱は、
平安初期の日本がまだまだ黎明期にあって
空海が真言密教の思想と方法をもって理想国家を
夢見たとことによると思います。そこには
ほんとうに万人を救済すべく、
その方法論として、空海が試みた理想国家の姿がありました。

それは人間すべてを包括するようなスケールを持った構想で
北アフリカから南、西アジア、
そしてタクラマカン砂漠を越えて
東アジアまでに渡る,全アジアの文化と思想と宗教が
その終点である日本に辿り着いて、日本の土壌のなかで
空海によって、大プロジェクトの構想と思想に
編集され、
結実されていきました。

次に

道元は、鎌倉時代の初め、
日本が熟成する前の混乱期、末法思想がはびこる中
本質を見究め、それを具現化していくための方法としての”禅”
これも、
思惟と考察が極められた
目を見はるばかりのいぶし銀のように重厚な思想と方法論で
ここに空海と同じくアジアの終点としての仏教思想や
中国の老荘思想と日本的雑多で多様な世界観を
上手に編集して体系化していった世界があります。

そこには西洋にはない、
空気や水や木のそよぎや風などが、
いかにもおぼろで儚い、しかし
流動的で自由で融通無碍なる粒子の世界までに
感覚的に解析され
風化されたとも言えるそれらは、
まるで現代科学や化学的思考を含んだ
ゆらぎのゆらめく世界観で
現代の人間が読んでも、
恐ろしいくらい納得できるものです。
この道元の先にあの長谷川等伯の松の絵が
あるような気がします。時代は戦国の末ですが・・・。

その空海や道元の打ち立てた世界で遊んでいるのが
江戸時代末期の良寛で、
ふらりふらりと浮遊しながらも
人間の本質が欲ではなく、執着でもなく
自我が解体して自由に遊ぶ精神に
自分と他者をはじめとする外部世界すべてが
海に浮かぶ泡がやがて海に一体化されたり、
また泡となって浮かんだりする海と泡のように
離反したり融合したりする
全体と個のホロニックな原素的世界の現象として
”自分”があることを
空海、道元、禅やタオイズムの世界を微妙に編集しながら
遊んで生きてみせました。

良寛の世界は、自分という個を極めることにより
それが全体の理でかつ普遍であるという悟りを産み
人間(個)が全体へと止揚されていくこと。
つまり
独りの人間の自我の解体をとおして、人間の幸福があること。
孤独な自分でありながら、しかしそれは
自分にも、他者にも同じように降りかかる運命であること
多少の段差がありながらも、自分も他者も
人間と言う生物を生きているいきものとしての同胞であることなどの、
その認識こそが自分を満たし、不安を取り除き、
他者と一体化した宇宙的充足へ自分が収斂していく
覚醒の世界です。

まさにお互いがお互いを鏡のように
照らし出す、
帝釈天の網の目にある数多の宝珠=自分(人間)=宇宙全体

自分がこの宇宙の中の大切な大切な一要素として
有機的化学的変化を伴いながら、この世に出現した
一つの命(有機体)として宇宙には不可欠の
なくてはならない存在であることを
証明している。

私たちは

誕生と死を繰り返しながら
永遠に宇宙の一員としての
無くてはならない存在だということでね。

すごいですね・・。

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この記事を書いた人

作家。映画プロデューサー
書籍
「原色の女: もうひとつの『智恵子抄』」
「拝啓 宮澤賢治さま: 不安の中のあなたへ」
映画
「どこかに美しい村はないか~幻想の村遠野・児玉房子ガラス絵の世界より~」

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