漱石も子規も、4,夢から醒めるということが、

人間の脳世界は、ひとりひとりが自分の脳の記憶が作り出す世界で完結しています。

それはまるで、ひとりひとりがカプセルに入っているようであり、

他者とは個絶しています。

文化人類学者岩田慶治先生の言葉のように

まさに、人間は「断絶を介してしか他者とつながれない」のです。

その孤独をしっかりと弁えて生きることです。

脳世界はいわば、その人間の記憶(思い込み)を基に、

常に現実を仮想し、未来をシュミレーションするという

幻想世界でもあります。

それはまた、年齢を経て、脳が成熟するにつれ、

その仮想世界が現実のなかで解体されて行きます。

経験や体験を積めば積むほど、自分が思い込んでいることは

思い込みにすぎない=幻想にすぎないことが分かってきます。

世の中とは、自分が思い込んでいるより、はるかに多様で複雑なのです。

それと同時に、その思い込みをいかに修正するかということが常に人生では起きます。

だからこそ、失敗や挫折の貴重な体験により得ることができた

自分の実感が、新しい創造の基になってゆきます。

解体され色あせてゆく宿命の先に見えてくるのは、

自己の創造世界です。

つまり仮想で夢みたことは。次々と現実において無残に挫かれ、

裏切られてゆくプロセスが人生でもあるのです。

自分が夢見、胸を躍らせた期待が、砂漠の蜃気楼のように消えてゆく。

詩人萩原朔太郎は言う。

「私は一切を失ひ盡した」と。

しかし、しかし本当の感動は、ここから始まるのですね。

つまり一切の幻想が消えて、そこに現れる世の中が(現実が)

いかに荒野であろうと、

いかに人生がむなしくあろうとも、

その砂漠の中に凛と立った時、

幻想や虚栄ではないホンモノの自分がそこにいるのです。

朔太郎のいう存在の実相です。

『私は一切を失ひ盡した。けれどもただ、ああ何といふ樂しさだらう。

私はそれを信じたいのだ。私が生き、そして

「有る」ことを信じたいのだ。』(萩原朔太郎詩「虚無の歌」より)

ただね~脳はそこで終わるわけではないのですよ。

つまり

脳とは、幻想のマシンであるとともに

創造のマシンでもあるのです。

幻想から解放された時からこそ、

脳の素晴らしい機能である、自分の人生の創造が始まる。

ここから、

この夢から醒め、砂漠の地に立ったここから、本当の、ほんものの自分が

自分の実感を基に、

自分の意志を以て人生を創造していくのです。

再び朔太郎の詩

『私は、過去に何物をも喪失せず、

 現に何物をも失はなかつた。

 私は喪心者のやうに空を見ながら、

 自分の幸福に滿足して、

 今日も昨日も、ひとりで閑雅な麥酒(ビール)を飲んでる。

 虚無よ! 雲よ! 人生よ。』  (「虚無の歌」より)

漱石も子規もドストエフスキーも、皆、虚無を、虚無と承知の上で、

自己の幻想が崩れ落ちたその瓦礫のなかから

再び

その創造的世界を構築していきました。

人間とは、

未知の中を手探りで仮想し、

その仮想が崩れる中、

自分を立て直しては、

自己の創造の真っ只中を、生きるのだと、

私は思います。

さあ

最後までまっしぐらに生きましょう!

     

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この記事を書いた人

作家。映画プロデューサー
書籍
「原色の女: もうひとつの『智恵子抄』」
「拝啓 宮澤賢治さま: 不安の中のあなたへ」
映画
「どこかに美しい村はないか~幻想の村遠野・児玉房子ガラス絵の世界より~」

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