前回は、人間は自分の脳の情報というフィルターを通してしか、
他者も社会もみることができないと書きました。
今回は、
世の中とは,脳が作り出す幻想であることを書きます。
人間が誕生したときの脳は、遺伝子で作られたその原型があります。
そして誕生後、だいたい10歳くらいで脳のデフォルトが出来上がると
言われています。
まあ、そこでその人の性格の原形とか外的世界に対する反応の体系が
できあがってしまうのですね。
そこから先は体験しては学び、経験しては学び、
まなんでは考え、
その原形の生き方を少しづつ修正しながら、
社会へ適応できる自分を作っていきます。
だから20代ではまだまだ赤ん坊に毛が生えたくらいの経験値であり、
30代40代もまだまだ,失礼ながら若造の領域です・・・苦笑!
しかし困った事に
たいがいの人は、もう自分ができあがっているかのような
勘違いをしてしまいます…トホホ!
このことが実は問題なのです。
私などの年寄りから見ると、欠陥だらけなのですが、
もう完璧であるかのような錯覚に陥る。しかし
人生は終わるまで
試行錯誤と学習との連続なのですね。
つまり人間は初めから遺伝子の在り様の中に自分の存在があり、
10歳でできあがったそこから先は、現実との格闘なのです。
それまで脳が獲得したデーターに基づいて、
現状や相手のことを仮想したり、シュミレーションしたりして、
適応するのですが、それはあくまでも、仮想なのであり、
殆どの人は皆失敗し、さまようのです。
社会も他者の世界も、
自分が思い描いているものとは、大きな落差があるのです。
それでも、
自分の脳の思いこみデーターを使いまわして
無意識で、たぶん~だろう、もしかしたら~かもしれない、という
他者や社会を推理類推する仮想現実を常に作り出しながら、
適応しようとします。
つまり、此の世とは、
人間が推理、類推し、シュミレーションの
仮想と仮想が織りなして作り上げているのです。
それが世間という現象です。
そしてもっと困ったことに
たいがいの人間は、自分のコンプレックスや心の闇や
ネガティブな感情を偽装して表面を繕いながら
仮面で生きようとします。
本当の本心は無意識の中にあります。しかし表面の意識は、
そういう自分ではなく、理想の自分を仮想し、
その仮想した自分で生きようとするのです。
つまり人間は無意識に仮面をかぶってしまうのです。
ちょっと自分のことで具体的に分析してほしいのですが、
恐らく皆さんは、
自分の事はよくわからないが、
他人のことなら、その長所も欠点もが良く見えるでしょ。
特に短所については、
この人はここを~のように直せばいいのになあ~、ということが
よくあるでしょ。
つまり他人の姿は客観的によく見えるが、
自分の姿は、
主観がのさばり、なかなか客観的には見えないし、
自覚がないのです。なぜなら
主観の意識はたいがい偽装した自分を生きようとするからです。
ここにも脳のトリックがあるのですが、それは後ほど書きます。
結論からいうと、人間は無意識領域で認識していることを
逆転させて自分を演出、脚色して生きようとします。
世の中とは、そういう本当のことが逆転して起きている
現象なのです。
なぜ、そうなるか、というと、
ここが大事で大切なのですが、
人間は、ほとんどの人が理想的な
●善良な自分で在りたいと
思っているからです。
そして、ほんとうにほとんどの人々が善良なのですよ。
しかしそれはそれとして踏まえた上で、
もっと厳しく、人間を裸にして述べると。
例えば、無意識領域で、自分をバカだとに思っている人ほど、
現実空間では偉そうにし、自分ではバカではないとアピールします。
反対に自分を知り、自分が大した人間ではないと思っている人ほど
謙虚で慎み深く、振舞います。
また、極端に現実を警戒して怖れ、人間不信に陥ったひとは 、
自分を抑圧して自分の本心をを殺し、
傍観者や従属者になってしまいます。
世の中とはそういう幻想や仮想が、
逆さまに現れ得る現象なのです。
自分に価値を置いていない人間ほど、上昇志向をします。
無能な人間ほど権力志向します。
能力が高い人は、次々と自己実現して満たされますから
権力など欲さないのです。
自己認知をしていない人間ほど、
自己顕示し、
人間を信じていない人間ほど、他者を忖度します。
世の中とは、こういう逆転現象が現れてしまうのです。
さらに困ったことには、
他者のその仮想(仮面)をそのまま信じてしまう人たちも
わんさかいます。
特に世間ではそういう人間を祭り上げ、崇拝する人が群れており、
しかし、それは依存する人々の群れであり、
自立していませんから、
その仮想=幻想が剥がれたら、もう足蹴にして攻撃します。
今太閤と謳われた田中角栄さんなんか、まさにその典型のようでしたね。
残念ながら、世の中が豊かになり、文明が進むにつれ、
生きることの厳しさが緩み、
辛抱したり、我慢する大衆ではなく
自立、独立するより、
●依存する大衆を産みだしてしまったのです。
それは世の中のこと=政治や経済の世界だけではなく、
個々人の自分の友人や恋愛相手や夫婦の間でも、
人間は自分のことを棚に上げて
相手を幻想化してしまうのです。
現実の厳しさを、突き付けられない社会は
自分を理想化して、自己幻想の自分をあたかも、
本当の自分のであるかのように思い込む人々を
沢山生み出したしまいました。
そういう仮想や幻想が縦横に錯綜し、闊歩するのが
人間の現実世界=世の中なのです。残念念ですが・・・ね。
では、
そういう現実=幻想世界を、どのように生きたらいいか。
このシリーズ1で、他者との関係で悩むことは不毛のことである、と
書きましたが、まずは、他者への依存や期待や幻想から
●冷める(醒める)ことですね。
たいがいの人は、自分のことが分からないまま
相手を類推、分析したり、シュミレーションしたりして悩みますが、
すべての事は、
●自分というフィルターと通してしか見えない。
それが人間の真実です。だからこそ、
それで悩むよりも、
●自分はどう生きたいかを、悩んでください。
自分とはどういう人間で、人生の中で何をしたいのかを
悩んでください。そして
自分の生き方を決めるのです。
もし、その他者との関係が必要なければ、さっさと捨てること。
もしそれが職場などで、関わらないわけにはいかない場合は、
●仕事としてかかわるのみであり、
●仕事は真剣に一生けんめい頑張るが、
社交やその他のことは必要最小限のことに絞って
なるべくかかわらない。
他者と自分をしっかり線引きして顔色を伺わない。
忖度しない。
「私は私」という強い意志を持って
それをちゃんと行動で示すこと。
中途半端な忖度人間に、ならないことです。
反対に
良い仕事をするため、結果をだすために、
仕事では
●大いに悩んでください。
さらに
パワハラ、セクハラする人間は、相手の弱いところを見透かして
そこに付け込んできます。だからこそ
●無駄にいい人のふりをしないことです。
脇が甘くない、凛とした筋の通った、強い人でいてください。
善い事と悪いことの筋をしっかり線引きして生きること。
そういう信念が体から溢れている人間には、恐ろしくて
パワハラもセクハラも、できないはずです。
そして生きる上でもし極意があるとしたらそれは、
●「悩まない」ということです。
悩むことなんかも捨ててしまう。
これが出来たらもう免許皆伝、いう事はありません・・・笑!
いつもアッケらかんとしていて
楽天的に運を天に任せて、のほほん、のほほんこそ
最上の人間関係であり、生き方だと、私は思います。
恋愛においても、
自分を悩ます相手は、
あなたにふさわしい相手ではない、と
いう事です。
人間は常に仮想現実を生きるしかない。
真実の自分をそのままさらけ出して生きている人、或いは生きれる人は、
ほんの僅かです。それは相当の知の達人です。
しかし、それが出来なくても、自分に起きることをそのまま受け入れ、
ダメだったら修正すればいいのです。
つまり、自分の脳が思い込んでいることが、
ほんとうにそうであるかないかは
体験、経験してみなければ分からないのです。
生きて見なければ分からないのです。
生きながら、自分で自分を幸せにするために、
自分の脳のデーター世界を変えていくのですね。
人生は長い、しかし短いかもしれませんが・・・。
ただそれも
生きて見なければ、本当のことは何一つ分からない、ということです。
今回、私は悩むなと書きましたが、しかし矛盾するようですが、
悩むことは悪いことではないです。
次回は何に悩むか、そして
悩んだ後、どうするかを、
書きます。
コメント