聖書の中には愛の言葉も沢山ありますが、
本来は大変厳しい教えでもあるのです。
このシリーズは、
まずはその厳しい教えの本質から少しずつたどり、
最後はイエスの愛の世界で包みますので、
最後まで、頑張って読んでいただけると、嬉しいです。
では。
「狭き門より入れ」ということの究極は、
「自分を捨てる」ということに尽きると、私は思っています。
「自分を捨てる」というのは自分の全否定です。すごいね!
自分が、自分がと頭をもたげてくるその
自意識と自己顕示の意識の全否定です。
その自意識のもとにあるのは、
人間の根源的で純粋な命の息吹ではなく
人間の対立の中で育てられてしまった
自己顕示と自己防衛の意識です。
もっと細かくいうなら
動物としての本能に
自分の親やそれに類するが者たちの自我が
すりこまれて記憶化している状態の自分です。
そこには他者と対立し、対抗しようとする未熟な自我の感情が
潜んでいます。
その自我の感情は、
極めて●個人的な情報と感情に裏打ちされたもので、
ほとんどの人間は
その自意識が引き起こす,
自分というものを基軸にした”ものさし”で
生きていきます。
そのものさし=自分がそれまで獲得した情報を
使いまわして、自分の外側の世界を測り
すべてのことを判断しようとします。
ひたらくいうと
自分が無意識のうちに
あれこれと
すべてを自分流に解釈し
それをそのまま
あたかも他人や世界に通じるようなものと
錯覚してして認識してしまう、という事です。、
そういうものさしを使うことを
人間はほゞ無意識にやってしまいます。
さらにそのものさしは
自分の想定外のことや自分が知らないこと、
そして自分が間違っていることなどを指摘されると
自我のプライドが傷ついててしまい、
その反動でさらに
自分のものさしを強化しようとします。
知恵の働く者(自分を客観的にみれつ人間は)、
その<ものさし>の偏りに
気づくのですが
その気づくということが
●駱駝が針の穴をとおるがごとくのように、
難しいのですね。
自分が思いこんだものさしには限界がある、ということに
気づかないかぎり
世界は自分という狭い意識のなかでしか
捉えることがせきません。
しかも
そういう自分の自意識を捨てることは
もう至難の業です。
イエスが自分の言葉を理解する、ということは
それまでの自分を捨て
自分の思いこんでしまった既成観念を捨てる自己否定という
厳しい関門の中を通らねばならない、としたのは、
イエスの布教こそが
当時の堕落した既成宗教から脱皮すると為の
命がけの戦いであったからですね。
それは
厳しく深い内省の中で自分をみつめてしか
通れない狭い門であると
言っているのですね。
自分の世界の狭さに気づいたひとは
外的世界の大きさに視野が広がっていきます。
世界は、或いは自分の外側に広がる世界は
自分のものさしなどでは、はかりきれない大きさが
あるからです。
自分のものさしはたかだか自分の背丈の内容でしかなく
周囲のローカルな情報にすぎないからです。
自分の外側にある大きくて広い世界に何があるかというと
そこには
営々と重ねられてきた人間の思索や叡智が、
星の数よりも多く煌めいています。
そういう広さから
俯瞰して自分の世界を見てみると、
自分が分っているというのは
たかだか自分が分っている範囲のうちにおいて
わかっているということで
それは極めて限定的なものにすぎないことが
わかってきます。
その限定的なものにしがみついている限り
自分の視野はそこどまりでしょう。
自分が分っていることは
もう、ちっちゃな、ちっちゃな、わずかな点にすぎないと
気づいてはじめて
世界は
自分のしらないことだらけなのだ・・ということに
開眼できるのです。
そうした時初めて
人間が営々と積み重ねてきた思索と思考の上にある
深い学識にもとづいた人間観や、
逆に
人間の”我欲”を超えたところに見えてくる
純粋な人間のこころや
そして体中を流れてゆく清々しく晴れ晴れとした精気に
気づくことが出来るのですね。
人間の濁った感情がいかに
ひとりよがりのことか、ということが
わかってくるのです。
そういう開眼を得てこそ、自分の視野をこえて
もっと●抽象的に人間をとらえていくことができます。
さて、イエスのこの「狭き門」に匹敵するのが
道元の世界ではないかと私は思っています。
それは曹洞宗、永平寺の雲水たちの修行の姿に
そのことを見ます。
生活の一切に、
ことこまかな作法が決められ、
それを逸脱することは
許されない、
いわゆる自由がない生活です。
自分の思慮を一切許されず
その小さな自分と自分へのこだわり、執着を
超越しなければならない
厳しい戒律のせかいですね。
しかし、これをやり遂げたあとはじめて、
新生な自分が生まれてくると思います。
それは一見人間を解放することと反するように見えますが、
しかしそうではないのですね。
そこでは
その人間が抱え込んでいる、
人間たちが造りだした煩悩の世界まみえている人間(自分)。
自分に捉われ
自分の小さい狭量な思慮のなかでしか、
解決できないことを、自覚できない人間(自分)。
自分の自我にしがみつく自分=自分のやり方や自分の考え方(ものさし)に
しがみつく自分がいっさい否定され、
そういう自我が自分から放り出されていきます。
そういう自分にたいする執着は許されない。
事細かに全否定され、自我が潰しつくされてはじめて
人間は自分の自我の執着から
解放されるのですね。
もっというなら自分にしがみつき
自分を通そうとするかぎり、そこには
自分の客観性を見る目が生まれません。
自分を突きはなし、自分を遠くからながめて
はじめて自分の全貌がみえてくるのです。
自分にしがみつこうとする自我は
未熟な幼児性のつよい自分です。
できたら、リスクも負いたくない、責任もとりたくない
厳しいことには向き合いたくない・・という
小児的な自分でありますよ。
それを道元は、いっさい妥協することなく、
厳しく突きはなし、
さらに行を強制するのですね。
寝起きからはじまり、
食べる作法や、仕事の作法や、就寝の作法まで
いっさいの自分流を奪いとってしまいます。
何と厳しいことかと思いますが、しかし
はっきりいうと
生きるということにおいては
なにひとつとして
厳しくないものはないのです。
みんな厳しいのですよ。
ただみないふりや、
なかったことにしているだけです。
しかし見ないふりをしても、
いくらなかったことにしても
自分の蒔いた種は
いずれ自分が刈り取らなければならなくなります。
これもイエスが言っていますね。
そして「狭い門」から入った人間たちに
何が待っているかというと
そこに在るのは
深い人間洞察にみちた人間観の叡智と
自分をより高次の時限に置いて生きようとする
清々しい心です。
人間のドロドロとした感情や執念の渦巻く世界との決別です。
それは
自分というかけがえのない個を生きるわたしです。
さらにイエスが自分の言葉を
”福音”(良き知らせ・ギリシャ語でエバンゲリオン)としたことの
大きなパラドックスがそこにあります。
それは
「狭い門から入ろう」と決意したものだけが
人世の苦から解放されていくということです。
つまり
・生きることにおいては
なにひとつとして厳しくないものはないと開眼し
(釈迦のいう一切苦、と同じです。)
そのことをしっかりうけいれた瞬間から
すべてが厳しくはあるが、しかしそこには
自分が本来もっていた可能性が開けてくるのです。
つまり、受け入れた瞬間から
主体が客体と入れ替わるのですね。
今まで客体として
自分の外側にあったすべてのものが
その主体(自分)のなかに受け入れられたとたんに
こんどは外側ではなく
その内側で生き始めるのです。
それは
昨日書いたように、すべての事が
自分の中でおきていることで
自分の外側におきるのは
すべて
自分の心が映し出されているということが
わかってくるのです。
だからこそ
禅の逸話の中で
唐代の禅匠、陸州道踪が弟子弟に王常侍対して
陸、「露柱も疲れたか」と問い
王常侍が
王、「露柱も疲れました」と答えた時
はじめて
王常侍が開眼した瞬間です。
つまり
自分が疲れたということは
自分に見えるものすべてが(すべては自分が投影されたものであるから)
柱も疲れた・・という事なのです。
主体が客体に投影され
投影された客体が
主体に再投影され
ひとつの認識として
獲得されるということですね。
西のイエスのことばも
東の道元の禅も、共に
深い深い人間洞察による視点から
人間の根源にある命の息吹を呼び起こし
自分を浄化していくための門。
それを伝えようとしたのですね。
そして親鸞の言葉も、
実はイエスの世界と通じるものがあります。
いつかそれも書きたいと思います。
みんな、人々を救おうとしたのですね。
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