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心に染みるイエスの言葉その3こころの貧しい人たちは、さいわいである

今日の記事は、
NHK大河ドラマ「真田丸」を見ていた頃に書いたものです。

「真田丸」最終回で
私が一番興味をそそられたのが
家康と信繁の対決です。

信繁に鉄砲を向けられた家康が
「戦で生きるしかない人間の時代は
もう終った」というようなことを言います。

それに対し信繁が
「そんなことはわかっている。しかし
自分の父親や死んでいった人間のために
お前を殺す」という風に返したと思います。

ちょっとみると
信繁の言っていることは
あゝそうか・・・と思ってしまいがちですが、

いけませんね~!

信繁は過去にしか目が行っていません。

その反対に
家康は未来をみています。

そして
信繁は自分を肯定できていませんが

家康は
自分も時代も肯定できています。

もし信繁さんがほんとう賢い人であれば、

淀さんや秀頼を
さっさと出家させて
豊臣家をあきらめ

家康の天下を保障してあげる仲立ちを
すれば

殺戮の戦国の時代も終わり
四方丸くおさまり
自分も皆も生き延びれていったのですが・・・。

まあ、そんなことなど
思いも浮かばなかっいたのでしょうね。

当たり前です、
大河ドラマですから
チャンチャンバラバラで
いいんです!

秀吉がなぜ権勢を振るえたかというと
彼は自前の銀山を所有していたからです。
その銀の抽出法も独占的に
押さえていたと思われます。

だから
家康は豊臣家の持って居る銀山を
是が非でも
欲しかったと思うから
それもあげちゃって、生き延びる方法もあった。

寧々さんなんかはそういう道を
選びましたね。

自分を肯定できず、
死に場所をさがすなんて
ほんとう愚か者のすることなんですが、

どういう訳か
日本の男たちはそれを
男の美学のように勘違いしている・・・アホッ・・苦笑!

※自己肯定できていない人間は
時代を引きずるのです。

さて、聖書の中のイエスの言葉について
書こうと思いますが、
その前に
なぜ
イエスの言葉世界が受け入れられ広がり
ついにはキリスト教が
世界宗教となりえたのか?

それは、

イエスが人々を肯定したからです。

ことわっておきますが

イエスの言葉を広め
人々を組織化し
宗教化したのは
イエスが死んだ後に
出てきたパウロです。

パウロは素晴らしいプロデューサーでした。

イエスそのものは
当時イエスらしき人で
クムラン教の修行者の「先生」と呼ばれた人間が
おそらくイエスではないかと
言われています。

さてそういう前置きはこれくらいにして

イエスの凄さと素晴らしさは

人々、すなわち人間の存在を

神の名において

全肯定したことです。

神の前においては

皇帝も王もいかなる支配者も
ただの人間であり

そして反対に

支配される者も
抑圧、収奪されるものも
差別される者も

すべてが
神の前での平等を
説きました。

そして

人間存在においては

いかなる者も

その存在を

肯定しました。

さらにその中で

神の言葉を信じ

悔い改めた者だけが

神の寵愛の中で生きられると

しました。

彼の言葉を貫いているのは

存在の肯定です。

しかし残念なことに
イエスの言葉が宗教化され
キリスト教として形が出来上がる頃から
いわゆる
宗教的な桎梏(縛り)を
持つようになり

結果的には
歴史的に
たくさんの過ちも
おかしてしまいました。

でもね

私は聖書の言葉が大好きで
今も
私の人生の手引書として
読んでいます。

イエスは社会の底辺で苦しむ
弱き、ちいさい人びとに

あなたたちこそ
神に愛されているんだよ!

説きました。

つまり
どんな貧しい存在も
抑圧され、収奪され
差別されている
弱い人々も
すべてが
神によって
その存在を祝福され
肯定されていると

説きました。

そして

あるときイエスは

小さな山の上にたち

人々に語りかけました。

それが有名な

「こころの貧しい人たちは、さいわいである」から

始まる

山の上の教え(垂訓)とよばれるものです。

 こころの貧しい人たちは、さいわいである、
  天国は彼らのものである。

 悲しんでいる人たちは、さいわいである、
  彼らは慰められるであろう。

 柔和な人たちは、さいわいである、
  彼らは地をうけつぐ人であろう。

 義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、
  彼らは飽きたりるようになるであろう。

 あわれみ深い人は、さいわいである、 
  彼らはあわれみを受けるであろう。

 心の清い人たちは、さいわいである、
  彼らは神をみるであろう。

 平和を作りだす人たちは、さいわいである、
  彼らは神の子とよばれるであろう。

 義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、
  天国はかれらのものである。

            (マタイによる福音書 第五章より)

※ここでいう、心の貧しい人とは、
苦しんでいる人、報われていない人などなどの意味です。

2000年も前にイエスはこう言って
迫害されたり、収奪されたり、差別される人々を
慰め祝福し肯定して廻りました。

しかし当時の民衆は
イエスが自分達の秩序を壊す異端者であると思い
彼を十字架にかけてしまいます。

そのイエスの死後でてきたのが
ローマの市民でもあったパウロです。

パウロのことは
「使徒行伝」として聖書の中に描かれていますが
その他にも
私が大学生の頃だったと思いますが
遠藤周作さんの本で読み
感動したことを覚えています

パウロこそがイエスの死後、その言葉を
神格化して広めていきました。

ただ
残念なことは

神格化されたイエス・キリストの世界は

彼らの信ずるその唯一の神が

この世を支配しているとし

異教徒の存在を

許しませんでした。

だから日本に来た宣教師たちも
日本をキリスト教国にする為に
はるばるやってきたのですね。

戦国時代には
そういう宣教師たちが
日本にも来て
キリスト教を布教しようとしましたが

その一方で
南蛮貿易の商人たちも一緒に
やってきました。

しかし彼らによって
日本の銀がどんどん海外に流出していきました。

徳川政権が鎖国をした理由の一つは
そういう風に
どんどん海外へと持ちだされる銀の流出を
くい止めるためでもあったと
言われています。

私は神というものは
人間が考えだしたものであると
考えています。

キリスト教だけでなく

ありとあらゆる宗教は

人間の創造だと思っています。

でもね

宗教の中にも
素晴らしい言葉や認識が

たくさんあります。

特にその言葉によって
導かれ
救われることも
たくさんあります。

現に私自身がそうでした。

若い頃のほんとうに苦しい頃に
すがるように読んだ
聖書の言葉は
今も私の宝物です。

毎年クリスマスのこの時期になると

少しずつ聖書のイエスの言葉を
ご紹介しています。

まあ

すこしずつ
私の聖書世界の
おすそわけですかね~。

山の上の垂訓も

素直に素直に

読んでくださればいいと思います。

そこには

ただただ

人間を愛し

肯定しようとした

イエスがいると

思います。

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この記事を書いた人

作家。映画プロデューサー
書籍
「原色の女: もうひとつの『智恵子抄』」
「拝啓 宮澤賢治さま: 不安の中のあなたへ」
映画
「どこかに美しい村はないか~幻想の村遠野・児玉房子ガラス絵の世界より~」

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