MENU

心に染みるイエスの言葉その4、人をさばくな、 自分がさばかれないためである。

クリスマスは、ツリーを飾って、ターキーとケーキを食べる日ではない。

聖書に書かれているのは、厳しく自分を戒める言葉であり、

心を新たにして祈りを捧げる日でもあるのです。

そして聖書の言葉が西洋文化の根幹をなしており、

不思議なことに、聖書のそれは

現代脳科学を以ってしても

どこか理が通り符牒のあることばでも

あるのです。

マタイ伝第七章からです。

 人をさばくな。
 自分がさばかれないためである。

 あなた方がさばくそのさばきで
 自分もさばかれ、
 あなた方の量るその量りで
 自分にも量り与えられるであろう。

 なぜ兄弟の目にあるちりをみながら、
 自分の目にある梁をみとめないのか。

 自分の目に梁があるのに、
 どうして兄弟にむかって、
 あなたの目からちりを取らせてください、と
 いえようか。

 偽善者よ、まず自分の目から
 梁をとりのけるがよい。
 そうすればはっきり見えるようになり、
 兄弟の目からちりを取りのぞけることが
 できるだろう。

結論的に言いますが

人間は他者の心などわからないのです。

逆にいうと自分の心は他者には,

わかってもらえないのです。

●これが心の大原則です。

心という現象は

その人間の脳内のデーターが
何かに反応して起きる現象ですから

自分の心が
何にどのように反応しているかを知っているのは
その本人だけです。

しかも
その本人でさえ、

自分が
・何に刺激され、
・どのようにそれが

脳の中で
・化学反応しているかさえわかりませんし

ほとんどは
●無意識に反応してしまいますからね。

そして私たちの意識は
脳のなかでの連鎖反応と化学変化の

・結果だけを知らされるという仕組みになっています。

つまりは
人間の心という現象は,複雑すぎて,

意識なんかでどうこういえるほど安易でも単純でも

ないのですね。

だからましてや

自分の意識と感情をだけで

他者をさばくなんてことが如何に

NGであるかということです。

そして確かなことは

自分の行為も言葉もすべてがブーメランのように

自分に返ってくること。

自分の蒔いた種は自分で刈り取るしかない
という
これもイエスの言葉ですが

すべてが自分発での起きていることであり
また

自分が描く他者の姿は自分の脳のシュミレーションにすぎません。

つまり

それが真実であるかどうかはわからず

むしろ

自分が思いこんだ誤解や妄想かもしれないのです。

他人の目の中にチリがあるというならその前に

自分の目の中の梁(つっぱり)を取りのぞいてごらんなさいよ。

とイエスが言います。

残念ながら2000年も前にイエスが看破しているように

人間の脳の中は妄想と幻想だらけです。

他者のことをさばく前にまず

自分の内面世界に目を向けて

そこをお掃除してからにしなさい。

そうすれば

他者の中に見える塵が自分の中にも

同じようににあるでしょう!


いうのですね。

若い頃、

私はこの言葉を読んで

ハッと胸を突かれました。

自分の中は塵だらけでその塵が他者を

素直に純粋にみることを、邪魔していました。

まあ
塵こそがシャドウですかね~。

なぜシャドウができるかというと

それは

その人がたくさん傷ついているからです。

さらにイエスは続けます。

 聖なるものを犬にやるな。
 また真珠をブタに投げるな。
 恐らく彼らはそれを足で踏みつけ
 向きなおってあなたがたにかみついてくるであろう!

つまり、
犬や豚(低レベルの人間に)にかかわって

自分の中の清らかなものを

汚してはいけないということです。

まあ、この時代の場合は

イエスを異端として迫害しようする人間のことでしょうが。

つまりは心が汚れてしまった人間を

相手にするということです。

そして

 求めよ、さらば与えられるであろう。
 捜せ、そうすれば、見出すであろう
 門を叩け、そうすれば
 あけてもらえるだろう。

 すべて求める者は得
 捜す者は見いだし
 門をたたくもの者は
 あけてもらえるからである。

自分の心を素直に信じて

求めなさい。

そして門をたたきなさい。

そうすれば

与えられ、門はひらかれるよ!

といいます。

それは他者の門でもあり、神の門でもあります。

 あなた方のうちで、
 自分の子が魚を求めるのに
 へびを与えるものがあろうか。
 
 このようにあなた方は
 悪いものであっても
 自分の子供には
 良い贈り物をするとを知っているとすれば
 天にいますあなた方の父はなおさら
 求めてくる者に良いものを
 くださらないことがあろうか。

 何事でも人々からしてほしいと望むことは
 人々にもそのとおりにせよ。
 これが律法であり、預言者である。

※律法とは、神が示す教えや規範のことです。

たとえ悪いことをした人間であろうとも

自分に子供に蛇を贈りものにはしない。

人間の根源には

神の愛の世界があり

たとえ悪者でも神に愛されているんだよ!

と、

イエスは言っているのでしょうか。

だからこそ厳しく、

 狭い門からはいれ。

 滅びにいたる門は大きく、
 その道は広い。そして
 そこからはいって行く者は多い。

 命にいたる門は狭く、細い
 そして
 それを見いだす者が少ない。

若い頃ボロボロ涙を流しながら

この言葉を抱きしめた私がいました。

この言葉を背中に張り付けて、生きてきたように思います。

狭い門、それは自分にとって、最も厳しい、

できたら逃げたくなる門ではありますが、

逃げない!

そして

すべては

自分の中でおきていることであり

自分の為したことが自分にかえってくる。

ほんとうに

その通りの人生でした。

まだ終わってないけどね・・・笑!

最後に

最近他者の心を読み解くような

タレントが横行していますが

他者のこころの中なんて

だれにもわかりませんよ!

自分の心を他者に

読み取られることなど

ありません。

そして、同時に

自分の心をわかってもらおうというのも

自分の甘えでしかありません。

勿論、霊能力なんてことも

ありえません。

だからこそ

イエスがいうように

安易に裁いたり

決めつけたりしてはいけないのです。

安心して自分の心を抱きしめてあげて

そのままの自分を生きることだと

思います。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

作家。映画プロデューサー
書籍
「原色の女: もうひとつの『智恵子抄』」
「拝啓 宮澤賢治さま: 不安の中のあなたへ」
映画
「どこかに美しい村はないか~幻想の村遠野・児玉房子ガラス絵の世界より~」

コメント

コメントする

目次