イエスの素晴らしいさは
人間を肯定し
丸ごと愛したことですね。
愛するとは無条件で
まるごと
愛するということです。
条件付きの愛は
愛ではありません。
条件付きの愛とは
~だったら愛してあげる・・・というものです。
いい子だったら愛してあげるとか・・ですね。
しかしイエスは
天の父は、
悪い者のうえにも良い者の上にも
太陽をのぼらせ、
正しい者にも、正しくない者にも
雨を降らしてくださる。
と説きます。
そして
何を食べようかと、何を飲もうかと
自分の命のことで思いわずらい、
何を着ようかと
自分のからだのことで
思いわずらうな。
さらに
空の鳥を見るがよい。
まくことも、刈り取ることもせず、
倉に取り入れることもしない。
それだのに、
あなた方の天の父は彼らを養っていてくださる。
あなた方は彼らよりも、はるかにすぐれた者では
ないか。
人間以外の動物も植物も
その本分を守り
その自然性でいきています。
しかし人間だけが
欲をだし、その反動で不安になり
思いわずらっているのではないでしょうかね~!
そして
あなた方のうち、だれが思いわずらったかとて
寿命をわずかでも延ばすことができようか。
またなぜ、着る物のことで思いわずらうのか。
さらにイエスの言葉のここからが
素敵なんですよ。
野の花がどうして育っているか、
考えて見るがよい。
働きもせず、紡ぎもしない。
しかし、あなたがたに言うが
栄華をきわめた時のソロモンでさえ
この花の一つほどにも着飾っていなかった。
きょうは生えていて、
あすは炉に投げ入れられる野の花でさえ、
神はこのように装ってくださるのなら
それ以上によくしてくださらないはずが
ない。
もう人間の存在が
丸ごと肯定され
愛されているから
そのままでいいんだよ!
ということですね。
人間はそのままで美しいです。
子供の時の愛らしさ
若い時のもう眩しいくらいの美しさ
そして
年老いた人間には
深く滋味にみちた美しさがあります。
そして人間の存在について
あの山の上の教えのあとに
イエスが言います。
あなたがたは地の塩である。
もし塩のききめがなくなったら、
何によってその味が取り戻されようか。
もはや何の役にも立たず、外に捨てられて
人々の踏みつけられるだけである。
つまり人間の存在には意味があり
ひとりひとりが
大切な役割をもつことを
自覚せよ。
というのでしょうか。
そして続けて
あなた方は世の光である。
山の上にある町は隠れることができない。
また
あかりをつけて、それを
枡の下に置く者もいない。
むしろ
燭台の上において、
家の中のものすべてを照らさせるのである。
あなた方の光を人々の前に置いて輝かし、
そして
人々があなたのよいおこないを見て
天の父をあがめるようにしなさい。
天の父とはイエスをこの世に遣わした神のことですが
しかしその宗教性を通して
イエスは人間を
全肯定しようとしたのですね。
存在は闇ではない。
存在は有であり、
塩のように意味があり
役割がある。
さらに存在は
光であり
自分の燭台を上に掲げ
その光で自分を輝かせ
家の中すべてを
それで照らしなさい。
と。
イエスは優しいね~。
そしてその包容力が
人々を包み込んだのでしょう。
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