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心に沁みるイエスの言葉その8、ぶどうの木

キリスト教がなぜ世界宗教となりえたかは、

イエスが死後三日目によみがえった、という神秘性や

その宗教性よりも、

イエスの深い言葉との生きざまの中にあると、

私は考えています。

それは見事なパラドクツスであり、故に、人々の心をつかんだのだと

思います。

そのパラドクッスは少し難しいですが

最後までお読みいただければ幸いです。

今日はじめにご紹介する言葉は、

●マタイが伝える福音書25章の29

「だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、

持たない者は、もっているものまでも取り上げられる。」です。

ええっ、おかしいな~、だってイエスはあの山の上の垂訓では、

「貧しい人は幸いである」って言っていたのにな~?と、

疑問が湧くかもしれませんね。

金持ちは更に金持ちになり、貧乏なものはさらに貧乏になるの???

そうですね~、確かにイエスはそういいました。

貧しい者は幸いである。天国はかれらのものであるとね。

その貧しい人とは、

お金や身分や地位や名誉その他、

人間社会の通俗的な富を持っていない人のことですが、

ここでいう持っている人というのは、実は、

●知恵や能力や才能のことを指しているのですね。

イエスは、それをどんどん磨き増やしていきなさい、と

言ったのですね。

そのたとえ話は、

ある主人が旅に出る時、しもべたちにお金を与えます。

あるしもべには5タラント、あるしもべには2タラント、

そしてあるしもべには1タラントを与えて、

主人が旅にでます。

そうして彼が戻って来たとき、

5タラント与えられた者はそれを倍にして10タラントにし、

5タラントも儲けたと報告します。

同様に2タラント与えられたものも倍にして4タラントにし

2タラント儲けたと報告します。

しかし1タラント与えられた者は、

主人を疑い、その1タラントも盗られないように土の中に

隠してしまいます。

その時のしもべの言葉が、これもまた不思議な言い訳なのですよ・・・・。

「ご主人様、あなたは撒かないところから刈り取り、

散らさないところから集めるひどい方だとわかっていました。

私はこわくなり、出て行ってあなたの1タラントを地の中に隠しておきました。

さあ、どうぞ、これがあなたの物です。」

つまりそのしもべが言うには

その主人は種を撒かない所から、巻き上げ、

収穫を分け与えず、逆に奪う酷い人間なので、

私は用心深く、自分に主人の害がおよばないように

もらった1タラントを土の中に隠しておいたというのです。

そこで、主人は言います。

「悪い怠け者め、私が撒かない所から刈り取り、

散らさない所から集めることを知っていたなら、

お前はその金を銀行に預けておくべきだった。

そうすれば利子がついていたのに」

つまり1タラント貰った者は、

自分が知恵を働かせず、怠けた理由を、主人のせいにして

言い訳をしたのですね・・・苦笑!

人はだれもが、能力をもっているのです。

しかし、その能力や知恵を磨いたり働かせないかぎり、ダメなんですね。

知恵を持っている者はどんどん発展していくが、

知恵を使わず、働かせもしない者は滅びるよ!・・・とです。

そして

そういう人に限って、いつも言い訳ばかりします。

さらに「撒かないところから刈り取り、

散らさない所から集める」とは、何を意味しているのでしょうか?

皆さんも考えてみてください。

これは、大変深い洞察の言葉です。ヒントは、

つまり、神は何もしないのです。

それはどういうことであるのか?

神は沈黙のままです。

遠藤周作さんの作品「沈黙」はこのことを書いています。

そしてもう一つご紹介したいのが、

イエスの言葉、

「私はぶどうの木、私に繋がっていなさい」です。

 
 「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。

 人がわたしにつながっており、

 わたしもその人につながっていれば、

 その人は豊かに実を結ぶ。

 わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」

イエスは人々に自分に繋がっていなさい、

そうすれば、あなた方は多くの実を結ぶだろう、と言います。

なぜなら、イエスの言葉こそ、人間がどう生きたらいいかの、

根源を説いているからだ、というのです。

根源的なことこそ、実は普遍的なのです。

なぜ、イエスの言葉が普遍的かというと、それは

イエス自身が神から愛されているからだというのです。

同様に、

すべての人間は神の愛の中にある、というのす。

深いのですね~。

だからこそ、神の言葉はすべての人間に相通じる世界である、と

イエスは言うのですね。

だからイエスというぶどうの木に繋がっていなさい。

もし離れたら、そこには不毛の地しかない、というのですね。

そして

前回ご紹介したように

主人とは=神様であり、

しもべたちは、神から

お金=タラント=能力、才能を与えられた人間です。

しかしイエスは言います。

しもべは、主人(神)のすることを知らない、と。

このことはどういうことかというと、

人間の自我世界は、いつの間にか根源的なところから

反れてしまいます。

人間には様々な生きる為の欲が働きますから

それはもう仕方ないことでもあるのです。

だから私は神から聞いたこと(根源的なこと)を

あなた方に伝えていると、

イエスが説くのです。

迷える子羊よ、

私に繋がっていなさい、なぜなら、

私はこんなにあなた方を

愛しているからです、と。

「父(神)が私(イエス)を愛されたように

私はあなた方を愛しました。」

あなた方だって、ほんとうは

神に愛され、神の愛の手のひらの中にいるのですよ、

と、

イエスは言うのです。

「私の愛のなかにとどまりなさい。

 私がこれらのことをあなた方に話したのは、

 私の喜びがあなたがたのうちにあり、

 あなたがたの喜びがみたされるようにです。」

「私があなたがたを愛したように、

 あなた方も互いに愛し合うこと。

 これが私の戒めです。」

キリスト教がやがて世界を席捲していくのは

その根底に、このおおいなる愛の世界があったからだと

私は考えています。

そして

現在わかってきたのは、

イエスとは、当時<先生>とあだ名された修行者のひとりであったようです。

そしてその人物は、他の犯罪者と共に、十字架にかけられたらしいのです。

ではなぜそのイエスの言葉が人々に響き、突き刺さったのでしょうか。

そこにこそ、

イエスの凄さがありました。

つまり、

イエスこそは、自ら十字架にかかることにより、

神を裏切る人々の罪を背負い

なおかつ

修行者として、自分が神に試され、民衆に試され、

その自我を叩き潰されることになるのです。

つまり、神の沈黙によって、

イエスは自分の言葉(布教)のせいで処刑されることになります。

だからこそ、人々は彼が死におよんでも今まで通り

神への賛美をするかどうかを、息をのみ込みながら

その処刑風景を見ているのです。

それは修行者としての自分の傲りが(自分は正しいという傲りが)叩き潰され、

ひとりの受刑者(罪を犯した者)として死ななければならないイエスの姿です。

そして人々は、自分は神の子であり、救世に来たというイエスが

神を汚すふとどき者として処刑されることを望んでいる。

処刑の前日ゲッセマネの園という丘で

イエスは血のような汗を流し祈ります。

ここにはイエスの苦しい葛藤があります。

彼も人間として葛藤するのです。

そして、ついに十字架にかけらたイエスが言います。

神よ神よ、なぜあなたは私を見捨てるのですか、と。

「我が神、我が神

 なにゆえに私を捨てられのですか。

 なにゆえ遠く離れて私を助けず、

 わたしの嘆きの言葉を聞かれないのですか。

 あなたは答えらえず、

 夜よばわっても平安を得ません。」

        (旧約聖書詩篇二十二編)

今処刑されようとしている私(イエス)を神は助けません。

神は沈黙したままです。

さらにイエスは旧約聖書の詩篇を唱え続けます。

しかしそれを唱えながら、嘆きながらも、

イエスはだんだんわかっていきます。

沈黙する神のほんとうの真意が分かってくるのです。

そして今、

自分は自分が啓発した神の道理の中にいることです。

その道理は、

徹底した神への信頼によってしか成就されないこと。

たとえ処刑されようとも

その道理に従って、神への信頼を失ってはいけないこと。

そして神の教えは、

死の瞬間までも、

神の救いの中に自分がいることです。

つまり、死の中にさえ、

希望や愛があることが分かってくるのです。

イエスが賛美するその詩篇は

神が貧しき者を慈しみ、苦しむものをいやし、

そして神に祈ること、神の御旨に生きることこそが

人々を救い幸福にすること。

世の中が乱れ、頽廃し、神への不信が蔓延している今、

自分は人間の(人々の)罪をすべて背負って死ぬこと。

翻ってそれは、

イエスの処刑(死)をもって、人々の中に

奇跡的な内省が起き、

その時人々はハッと気づき、

人間不信さらには、

神への不信が拭い去れ、逆に

神への強い信頼が沸き起こって来るであろう、という

神のパラドックスの中にあることが

自分(イエス)に課せらた使命であることが

分かってくるのです。

そこに気づいてきたイエスは最後に

力強く詩篇を謳います。

「地の誇りたかぶる者はみな主を拝み

 ちりに下るものも

 おのれを生きながらえさせない者も

 みなそのみ前にひざまづくでしょう。

 子々孫々、主に仕え

 人々は主のきたるべき代まで語りつたえ
 
 主がなされたその救いを

 後に生まれる民にのべ伝えるでしょう」

そして彼の命がつきました。

善人も悪人も、チリや塵の中にいきるしかない者も

病気の為に死の前にいる者も、

すべて皆

最後は、神の愛の中に包まれるよ。

そしてそれは今をしっかり生きることであり、

やがて

神(救世主)が現れるまで、

延べ伝えられる、と賛美して死んだのです。

人間の一切の罪を背負い、自分の死と引き換えに

最後まで神を信じ、人間を愛し、

自分を処刑しようとした人々にもさえ、

神の愛が注がれていることを

説いたのですね。

人々が、神の愛の中に生きるように祈りながら死んだイエス。

その姿に当時の人々はどんなに胸うたれたか、と

思います。

次回はイエスの願いでもある、

赦しの秘跡について書き、

終わりとします。

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この記事を書いた人

作家。映画プロデューサー
書籍
「原色の女: もうひとつの『智恵子抄』」
「拝啓 宮澤賢治さま: 不安の中のあなたへ」
映画
「どこかに美しい村はないか~幻想の村遠野・児玉房子ガラス絵の世界より~」

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