いつから小説の中に性描写が過剰になってきたのか、もしかしたら
村上龍の『限りなく透明に近いブルー』あたりからですかね~。
ただそれはエロくないですが、私は余り良しとはしません。
この小説もそういう描写が多く、
しばしば途中で読むのをやめようとしたのですが,
まあ、それはそれとして。
尾崎世界観氏の名前の<世界観>は、
尾崎君が周囲から、君の曲は世界観がある、と度々言われるのが嫌で、
わざと名前を世界観にしたとのことです。
そうしたら世界観がある、と言われなくなったそうです。
が。
彼の小説「祐介」には、世界観はありません。
あるのは、
閉じられた個の世界。
まだ世界への小穴すら開いていない、
プリミティブな少年のきわめて狭小な個の世界です。
傷ついて、屈折し歪み、くたびれて、ギターと音楽の鎧の中に籠り、
人間の属性である性の世界からしか、他者と繋がれず、
つまりセックスと暴力を通してしか他者と繋がれない、
閉じられた少年の世界です。
しかし、ところがですね、その少年は或る時、京都のライブに出た後、
泊るところがなく、仕方なくそのライブの客の女のところに泊り、
関係を持ちます。しかし帰ってきたその女の情夫に半殺しにされ、
身ぐるみ剥がされ、はだしのまま、外に放りだされます。
かれはゴミ箱を漁り、スーパーのビニール袋を靴にして、とぼとぼ
歩き出しますが、そこから現実と幻想が錯綜していきます。
この小説は、そこからが素晴らしいのです。
世界観などという、
手垢のついたありきたりの世界ではないところこそが初々しく、
その何も整理されていない青年の未知の闇の世界こそに
意味があるのです。
話を戻します。
身ぐるみ剥がれ打ちのめされた少年のそこから、
主人公の人としての風穴があいていきます。
メタルのように固く、強固に凍結していた感情に穴があいていくのです。
無垢の子供の頃の感情が、あどけない思いがそして、
本人が芥子粒のように黒く固く押し殺していた感情が、
ロウソクの灯のように幻想の中に錯綜していきます。
そしてそれらが凍解してゆく中で
幻想の中のもう一人の少年が救世主のように現れます。
主人公の分身であるその少年が彼に言います。
「僕たち、間違ってませんよね?」
○ ○ ○
間違ってなんかいるもんですか。
君は、その通りの君であり、
我慢してきたこと、悲しむのをやめてきたこと、
どうしようもなく悔しい現実を
そのまま生きてきたことが、間違いなんかであるものか。
頑なな心と体がほどけてきた時、
彼の中に優しさのさざ波が立ち、
抃舞(べんぶ)が起きてきます。
抃舞とは、喜んで手を打って跳ね踊ることです。
ふぁんふぁれ!ふぁんふぁれ!
ふぁんふぁれ!ふぁんふぁれ!
と。こうして物語は終わります。
拍手!!
<つづく!>
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