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◆クリープハイプ・尾崎世界観の世界その5,最終回。

クリープハイプの「栞」以外の曲を聴いたが、

「栞」レベルのいい曲がなかなか見つからない。

殆どの曲はその鎧が強すぎて、尾崎世界観君の

もっとも良い所が現れ出てきていないような気がする。

「祐介」では、まだまだ本能的にしか生きていない、つまり

人間の性的欲望でしか生きていない青年が

行きずりの女と関係し、その情夫にぼこぼこされ、

丸裸、つまり全否定された時、はじめて

自分が一番欲しかったものの幻影がでてくる。

それは小学生の自分があこがれた<しらいめぐみさん>の体操着であり、

そして自分の分身である黒井ランドセルの少年の姿である。

優れた作品にはその人間のもっとも柔らかい人間の肉と、

生まれでた瞬間のような感性と

なにものにも汚されていない精神の世界があり、

そういうアンテナがそよぐのである。

もう一つの作品「母影」では、それがそのまま

知的な障害をもつ母親のいかがわしい商売の傍らで、

息を潜めて母を見守る女の子に投影されている。

その純粋に繊細な世界が美しい。

女の子の担任の先生が来て、いかにも世間的正論を吐きながらも

母親の性的サービスを受ける。

そこにはいかに世の中がうさんくさく、いかがわしく、そして

汚れ切っているかが透けている。

しかしその一方で成熟した大人として、

ピンサロの瞳さんがいる。

良い作品というのは、なかなか見つかりません。

それはただただ素直に良い、という作品です。

世間で氾濫し、流布されている作品などには、この

原質で、透きとおっているものが、なかなか見つからない。

反対に、よけいなもの、つまり人間の妄想や装飾をたくさん纏い、

女の子の担任のような疑似正論に技巧されていたりと、

いわゆる

清々しくて、まっすぐな風が吹き抜けていないのです。

なぜなら、清々しくて、まっすぐな風が吹きぬけるには、

厳しい孤独と極北の自分を見なければならないからです。

適当なところで折り合いをつけた作品などは、

たしかしに分かりやすく、理解しやすく大衆にもてはやされるが

厳しいものを突き付けてくる作品は

全否定された自分であり、

祐介のように裸形の自分であり、

厳しい風がその情けない自分を突き刺してくるからです。

ある作家に「厳しさが足りないね」と言ったら、

きわめて表層的な反論がきた。

つまりその人はそこまでしか自分を究められないのでしょうね~。

ただ、ただね、その厳しい孤高と極北の風に突き刺された時、

あの何もけがれていない女の子の感性と、

そして自分の分身の男の子も、蘇ってくる。

尾崎世界観君の、あの女の子と、黒いランドセルの男の子が

くれぐれも、彼自身の手で殺されないように

祈るばかりです。

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この記事を書いた人

作家。映画プロデューサー
書籍
「原色の女: もうひとつの『智恵子抄』」
「拝啓 宮澤賢治さま: 不安の中のあなたへ」
映画
「どこかに美しい村はないか~幻想の村遠野・児玉房子ガラス絵の世界より~」

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