以前作家志望の若い女性が来た時、
私は断定した文章を書く事を恐れないように、と話した。
なぜなら、そうしないと文章は磨かれず、いつも凡庸さの中を漂う
平板なもので終わるからだ。
断定した言葉や想念=自分の判断(決断)は、
一つの完結を経た、その人間の自己根拠として塵のように積もってゆく。
この塵のように積もったものが、やがては自信となり、安定した世界観となるんだからね。
例え間違えたとしても、一つのよい経験知になってゆく。
一つ一つ、これでよし!
これだ、というように自分が確信したものを,
肯定しておくのよ。それが大事なのよ。
ところが、断定せず、どっちに転んでもいいような言葉や曖昧な想念の中にいるかぎり、
ものごとは明確ではなく、いつもボケて、浮遊するし、
迷いが生じるし、作る作品は、ボケたつまらないものにしかならない。
そして更に、断定しない言葉を吐く人間は、いつも逃げ腰の人間だ。
例えばテレビのニュース番組のキャスターをしているNスタの井上アナウンサーは、
いつも最後に「かもしれません」を入れて自分の意見をぼかして逃げている。
いかにも万人向で如才ないが、この人は多分大成しないと思う。
世の中を背負おうとしていないからね。
またテレビ朝日のモーニングショーの羽鳥アナは、
自分の本心では断定しているにも関わらず巧妙に隠し、それを玉川氏にやらせている。
頭がいいが、ズルイ。
いつか、そういうテクニックではなく、自分を押し出していかないと、
これも、ものにならない。
テレビを見ないので、その他のキャスターをあんまり知らないので、
この二人しか例にあげられないけど、
以前テレビには、けんけんがくがくの壮士が沢山いたと思う。
個性があふれていたけど。
世の中、無難なものや、さしさわりのないものばかりが跋扈すればするほど、
知的文化は後退してゆく。
断定と言われようが、独断的といわれようが、
オノレの考えを明瞭、明確に話し、表明する事だと思います。
自分の頭で考えた事の何がわるいか!
自分の感覚、感性で感じた事の何が悪いか!ちゃんと居直れ!と、
私は母からそう教わった。
そういう事を疎かにしていると、
何ごとも、終点のない迷走地獄をうろうろして人生が終わると、教わりました。
文章にしろ、絵画にしろ、音楽にしろ、その他の事すべてにおいて、
これこれが自分の感性と考えである、と明瞭にし、
そこに、一つ一つのピリオドを打つ事こそが大事なのです。
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