恩師K先生が言いたかったことは
例えば目の前に暴力でやられて倒れている人がいたら、
まず、助けろ、小理屈をこねるな。
そういうとっさに人としての行為ができる人間になれ、と
いう事です。
いくら、知識や教養があっても、
そういう最も根源的な人間としての
在り様を失うな、という事です。
私の大学時代のボーイフレンドには、面白い人がたくさんいて
その中でK君は文化人のことを、文化け人(ぶんばけじん)と言っていた。
つまり本人も周囲の人間も、知識人や文化人と思っているが、
実は、文化人もどき、文化人風の人間であり、
日本にはそういう文化け人がわんさかいる、と
彼はいうのである。
そして当時私が住んでいた国立を
<文化け人の町>といって揶揄し、からかわれた!
しかしこうして歳を重ねて見える世の中は
K君の言っていたことが、
まんざら当たっていないこともないな~とも、
思うのです。
昨日指摘した河瀨直美さんの祝辞を含め、
世の中の表面で活躍する?いわば
知識人、文化人という人の中にも、相当該当者がいる。
一見教養がありそうであるが、その教養も思考力もが
浅いのである。
それに比べ、庶民の中、いわば知識とか文化とかいう
鎧や衣をつけていない、いわば
そういうものから遠い、
ごく普通に市井に生きている人々の中に
思いがけず深い知性を感じることが、多々あります。
例えば映画「どこかに美しい村はないか」での
遠野のばっちゃ達など、
重労働の農業の中を生き抜いてきた、
何とも言えない、いぶし銀のような知性を感じる。
女として妻として母として、そして一人の重要な働き手として
彼女たちの圧巻の存在感は、
どんな観念フェミニストも叶わない。
更に私が書かせていただいた<樋口一葉>も、
一家を背負い借金に明け暮れ、
そこには<リアリスト>としての、
いぶし銀のような知性とフェミニズムが
ある。
それはなぜか、というと
彼女たちはまさに、<現実>と戦ったからである。
リアリズムの真っただ中を生きたからである。
その現実においては
空疎な観念的バランス論なんか、吹きとんでしまう。
宮澤賢治は最後にはリアリストとなったと、
菅野博氏は『銀河鉄道の夜』改稿稿ー空間から時間へ―の中で
書いておられる。
賢治の最後の手紙は、自分の書いたことはすべてが
むなしい蜃気楼であったと記している。
今、ウクライナとロシアの戦争という
世界の現実が私達の目の前で、
まさにどうしたらいいかわからない現実として、
突き付けられている。
この現実をこそ、
河瀨さんが映画人としてどう凝視し、考察し、
そして表現するかである。
厳しい観察の目と、
深い考察を重ねれば重ねるほど、
安直に、言葉を吐くことなどが、
できなくなると思いますよ。
そして今、必要なことは
痛んでいる人、絶望の中にいる人への
人としてのこころ、温度で、
その怒りと悲しみをしっかりと
共有することだと、
私は思います。

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