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◆映像作家河瀨直美氏の東大入学式祝辞についてその2、ほんもののリアリストになれ!

恩師K先生が言いたかったことは

例えば目の前に暴力でやられて倒れている人がいたら、

まず、助けろ、小理屈をこねるな。

そういうとっさに人としての行為ができる人間になれ、と

いう事です。

いくら、知識や教養があっても、

そういう最も根源的な人間としての

在り様を失うな、という事です。

私の大学時代のボーイフレンドには、面白い人がたくさんいて

その中でK君は文化人のことを、文化け人(ぶんばけじん)と言っていた。

つまり本人も周囲の人間も、知識人や文化人と思っているが、

実は、文化人もどき、文化人風の人間であり、

日本にはそういう文化け人がわんさかいる、と

彼はいうのである。

そして当時私が住んでいた国立を

<文化け人の町>といって揶揄し、からかわれた!

しかしこうして歳を重ねて見える世の中は

K君の言っていたことが、

まんざら当たっていないこともないな~とも、

思うのです。

昨日指摘した河瀨直美さんの祝辞を含め、

世の中の表面で活躍する?いわば

知識人、文化人という人の中にも、相当該当者がいる。

一見教養がありそうであるが、その教養も思考力もが

浅いのである。

それに比べ、庶民の中、いわば知識とか文化とかいう

鎧や衣をつけていない、いわば

そういうものから遠い、

ごく普通に市井に生きている人々の中に

思いがけず深い知性を感じることが、多々あります。

例えば映画「どこかに美しい村はないか」での

遠野のばっちゃ達など、

重労働の農業の中を生き抜いてきた、

何とも言えない、いぶし銀のような知性を感じる。

女として妻として母として、そして一人の重要な働き手として

彼女たちの圧巻の存在感は、

どんな観念フェミニストも叶わない。

更に私が書かせていただいた<樋口一葉>も、

一家を背負い借金に明け暮れ、

そこには<リアリスト>としての、

いぶし銀のような知性とフェミニズムが

ある。

それはなぜか、というと

彼女たちはまさに、<現実>と戦ったからである。

リアリズムの真っただ中を生きたからである。

その現実においては

空疎な観念的バランス論なんか、吹きとんでしまう。

宮澤賢治は最後にはリアリストとなったと、

菅野博氏は『銀河鉄道の夜』改稿稿ー空間から時間へ―の中で

書いておられる。

賢治の最後の手紙は、自分の書いたことはすべてが

むなしい蜃気楼であったと記している。

今、ウクライナとロシアの戦争という

世界の現実が私達の目の前で、

まさにどうしたらいいかわからない現実として、

突き付けられている。

この現実をこそ、

河瀨さんが映画人としてどう凝視し、考察し、

そして表現するかである。

厳しい観察の目と、

深い考察を重ねれば重ねるほど、

安直に、言葉を吐くことなどが、

できなくなると思いますよ。

そして今、必要なことは

痛んでいる人、絶望の中にいる人への

人としてのこころ、温度で、

その怒りと悲しみをしっかりと

共有することだと、

私は思います。

パンジー、最後の輝きです。
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この記事を書いた人

作家。映画プロデューサー
書籍
「原色の女: もうひとつの『智恵子抄』」
「拝啓 宮澤賢治さま: 不安の中のあなたへ」
映画
「どこかに美しい村はないか~幻想の村遠野・児玉房子ガラス絵の世界より~」

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