家事と介護の合間を縫って、山川菊栄著「わが住む村」を読んでいる。
なぜこの本を読んでいるかと言うと、
この本の舞台の神奈川県藤沢市の村岡村は、私が中学、高校の6年間を過ごした村だからです。
実はこの本、私が高校生の頃にも読んでおり、57年ぶりに、読み返しているのです。読み始めると、懐かしい地域の名前が出て来て、さらに当時の村の風景や様子に、なんだか胸が高まります。
この本を読む前に読んでいたのが同じ著者「武家の女性」です。
これは、ホンモノのフェミニストとして(我田引水ですみません)の私の矜持として、
大変な差別をうけながらも、江戸時代の下級武士の妻達が、
その慎ましい生き様の中でも、様々に労働をこなし、
家計経営や家族の世話をしながら逞しく、
いかに世の中を下支えしていたかが、書いてあります。
今、丁度大河ドラマで、鎌倉時代をやっていますが、
武士も、もともとは農民であり、土に根を張って生きる百姓であり、
だからこそ、下級武士の女達は、機を織り、竈門を吹き、鍬を握る土くさい中、
身体を張って家族を背負って、生きました。
まさに、北条政子や松下禅尼などは、だからこそ、逞しく、
御簾の中で、歌を詠み、音曲に遊んだ平安の姫達にはない、
戦乱を生きる男まさりの女丈夫たりえたのだと思います。
その後の戦国の真っ只中も、江戸も、そして、維新後も昭和まで、
この国の女達は、社会の表層ではなく、
また、誰からも評価されずとも、むしろ地べた近くで、この世を支える大地として、
或いは、目には見えない太陽としての存在であったのだと思います。
敢えて<ホンモノのフェミニスト>と私が謳ったのも、
観念化されたフェミニズムではなく、リアル存在として、
いつも、どんな境遇にあろうとも、その素晴らしい生命力こそが、
底力として女の身体と心に、熱く流れている、という事です。
そして、それは、水底に有る澄んだ石のように、確かないものであると、
私は思います。
柳田國男のお弟子さんでもある山川菊栄女史の文章は、美しいです。
現代の作家には見られない、素朴な、優しい描写に、心が和みます。
また、ご紹介します。



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