ドラマ「絶メシロード」を見ながら娘がつぶやいた。
本来なら、こんな食堂で頑張ってくれている、おじさん、おばちゃんが、
輝かなきゃあいけないのよね。私もそう思います。
社会というものは、見えないところで、
無名の大勢の人々に支えられています。
多種多様な人々が、それぞれの足場で、働き、だからこそ、
社会が壊れないのです。
そして慎ましいゆえに、あからさまには見えないけれど、
社会や町の一角で頑張ってくれている人々が、生き生きしている。それが、
社会が活きてる(生きてる)って事だと、私は思います。
その社会が、なにかしらの価値に一元化されて行くと、
社会は壊れていってしまいます。そして、
今となっては、仕方のない事ですが、
日本の経済はひとつの流れとして、不可避的に、
大きな資本力があるものが、弱いものや、小さいものを潰してしまいました。
また国民も、いつの間にか、宣伝に煽られ、
そういう渦の中で、立ち止まり、
本当に大切なものは何かを考えることを、
放棄したかもしれませんね。
地方が疲弊していったのも、本当は、
地方こそに日本人のアイデンティティがあることを忘れたからだと、
思います。
先日ご紹介した山川菊栄女史著の「わが住む村」の中に、
明治では、都市と農村が似たものどうしであり、
今のように、へだたりが、極端ではなかったと、書いてありました。
彼女の師匠である柳田國男も、平地を戦慄せしめよ、と、
アイデンティティがきえてゆく都市への危機感を持って「遠野物語」を書いたように
思います。
見渡すと、消費する一方の社会で、いかに私達が、情緒に欠け、
心が、乾いた砂地のようなところにいて、何か枯渇しています。
しかし、このようなドラマが生まれ来ているという事は、
どこかで、誰かが、少しずつ、気づき始めている、ということかもしれません。
ささやかに、慎ましく生きて、社会を支えている人々に、
光が当たりますよう!
そういう社会をつくらねばと、
願い、祈ります。
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