ほんとうは、一人ひとりの中で熟したものが、文化になっていく。
文化は、おかみが上から作るものではない。
巷のあちこちで、人々の文化の芽がでてくるもんなのです。
文化は、下から、つまり民衆の中から生まれ、立ち上がっていくものである。
文化は、周辺(地方、僻地)で生まれる。
つまり、権力や冨から一番遠いところで種がこぼれ、芽が出、花が咲いてゆく。
生まれたばかりの最初のそれは、泥臭く、しかし原始的なエネルギーを持っている。
プリミティブなそのエネルギーと、装いは、さまざまに人々を席圏しながら、
やがて周辺から中央へと上ってゆく。
のぼるにつれ徐々に洗練されていく。
そして中央にたどり着いた時にはもう、プリミティブなエネルギーはなく、
むしろスカスカに骨を抜かれた、美しいが形骸化した文化になってしまう。
洗練される事は、決して良い事ではない。
むしろ、そこにあったプリミティブな生命力は衰退していく。
その文化の観点から現代日本をみると、
いかに、この国の文化がスカスカになっているかわかる。
つまり、中心核が無いのである。
しぶとく黒光りする、アイデンティティの柱がもう、
ガラガラに空洞化してしまった。
規律も秩序も、もうパッチワークのような切れ端になってしまった。
西洋化、擬似アメリカナイズ、そしてグローバル化、さらに
デジタル化されて、細かく刻まれてしまった日本の文化とアイデンティティは
どこに行くのだろう。
本当は、一人ひとりの個人の中にあった、
大事な個性と技術と文化が大切にされなければならなかったと
私は悔やむ。
なぜなら、そこにこそ、確実に成熟する文化が芽吹くからだ。
それは単に大衆食堂だけでなく、 多くの町工場や、職人や小さな個人店や、
農業や林業や漁業だってそうだ。
本当は守るべきだった。

もし、私が今の環境から解放されたなら、
是非、絶メシの食堂を訪ねてみたい。
もし、まだ絶滅せずにあったら是非、そのおじちゃん、おばちゃんの作る
絶メシをたべてみたい。
まだ、あったら、ね。
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