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夏目漱石のシュール!について。

意外に思われるかもしれないが、 漱石もそのシュール世界を完成させた人だと思います。

優れた作家になればなるほど、

自意識やナルシズムが消えて、作品がより抽象的になるからね。

それに内容が、高踏さや、ある種普遍的になればなるほど、

シュールな抽象性を帯びてくる。

晩年の漱石の作品「ガラス戸の中」は、ガラス戸一枚を隔てたあちら側にある俗世界、つまり人々が織りなす巷間を、

ガラス戸一枚隔てたこちら側から漱石がみている。 

熟れた柘榴の実が弾けて腐りこぼれてゆく様な世の中を

ただただ無言で凝視している漱石がいる。

以前Facebookで漱石の事を書いたら、

コメントで、自分は「三四郎」を読んで漱石はくだらない、

反対に三島由紀夫の「金閣寺」は素晴らしい、という風な内容が書いてあった。

人はそれぞれ自分が好きなのを良いと思えばいいのです。

それでも敢えて言わせてもらえば、漱石と三島では、成熟度が格段にちがう。

三島はまだまだ醒め浅いというか若いと言うか、

三島の作品は、シュールまで透過される前に、

彼が命を絶ってしまったのではないかと、思うと、残念な気がする。

それも、決めつけてはナンだからと、何十年ぶりに「金閣寺」と「奔馬」を読んだが、

まだまだ感性も感覚もギラギラしていた。

「奔馬」の方も途中で読むのをやめた。

三島も、もっと長生きして、ナルシズムをどんどん削ぎ落とし、枯れるまで描き続けて欲しかったなぁ〜。

ドストエフスキーも容赦なく人間の狂気を描いてゆくが、

しかしそれらの人間達の背後には、長老ゾシマの揺るぎない愛の世界が控えている。

だから彼は、「カラマーゾフ」を書き終え、渾身の仕事を成し遂げたその数ヶ月後に亡くなった。 

それは、自分のナルシズムに溺れることなく、

自分より他者を、人間を、

愛そうとした作家の死であった。

漱石もガラス戸の向こうの、救い難い世間を、

為すすべもなく見ているがしかし、

彼もゾシマと同じように、

それを包み込むように、覚醒した目で、見ている。

それは見守る、という言葉では余りに安直すぎ、寄り添うともちがう。

人間の不条理や虚無や嘆きを、突き放さず、じーっと見ているとでも言おうか。

漱石のその眼差しは「三四郎」を読んだくらいじゃあ分かんないだろうなぁ。

もうおわかりかと思うが、

シュールというのは、人間の生々しい感情ではなく、

それを超えたところにある、静かに人間世界を見つめる愛の世界なんだね。

温度や熱量はないけれど、

川の上流にある澄んだ水のように、透徹した眼差しの世界だと、

私は思っている。

それは、説明も、意味も、価値さえもとっぱらい、

カメラのレンズのみが映し出す静謐な映像の世界と似ている。

そして、飄々とした

温かい愛の世界だと、私は思う。

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この記事を書いた人

作家。映画プロデューサー
書籍
「原色の女: もうひとつの『智恵子抄』」
「拝啓 宮澤賢治さま: 不安の中のあなたへ」
映画
「どこかに美しい村はないか~幻想の村遠野・児玉房子ガラス絵の世界より~」

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