言葉は芸術だと、司馬遼太郎さんが書いておられる。
正確には、以下のように書いておられる。
「人間が最初に出会う芸術は、絵画でもなく、音楽でもなく、言語なのである」
私は常に、言葉は大事だと言ってきた。
そして、言葉をまきちらかしてはいけない、とも。
また私は、
自分の頭の中に浮かぶ映像(スクリーン)を、いかに言語化するかを頑張ってきたが、
司馬さんによると、世の中には、そのスクリーンが、真っ暗な人もいるとのこと。
となると、いくらこちらが言葉の練度や熟度を上げても、
それがまったく伝わらないこともある、って事ですね。
なるほどと納得。
そういえば、
以前に比べて、言葉が通じなくなったいるなぁ、とは感じている。
たくさんの人がブログやSNSをやっているにもかかわらず、
どうしてそうなのか。
司馬さんは、
スクリーンは、つねづね頭を鋭敏に訓練しておかなければならないが、
学校の現場ではどうなんだろうと、疑問を呈されている。
そういえば日本の学生達の文章の読解力が、著しく低下しているという報告が為されている。
短絡的に、
数字や単語だけに反応する人が増えている。
長年テレビという、受け身だけの文化に浸りすぎたこと。
○✕式教育や、
答えがあることを暗記する受験教育も、
考えない人間を作りすぎたかもしれませんね。
以前私は「脳は空より広いか」というブログを書いたが、
脳のスクリーンがないことは、
自分の脳の中の可能性を、いたずらにぶっ潰していることでもある。
脳は記憶の連鎖を駆使して、さまざまに映像を結び、
ときにジャンピングしたり、ときに細密に焦点化したりと、
その人間の意識が、知らないところで、素晴らしく高度な作業をしてくれる。
つまり、分からないことや、どうしても引っかかることなどを、
脳の中に保留していると、
ある時、フッと答えがみつかったり、
思いもよらない事が浮かんだりするでしょ。
例えば私も、ある言葉で書きだしたものが、
いつの間にか、それがもっと発展してり、
思いもよらない結論がうかんだりという事が、
もう日常的にある。
それが脳の働きである。
だから、
いつも、脳はすごいなぁ〜と思う。
そう考えると、
頭の中にスクリーンがないとしたら、
それは、本当に残念な事だと思う。
そして、すべての人が等しく言語の中を生きる人間は、
言語が芸術であるならば、
大げさにいえば、
それを磨く人生の日々を
芸術化するって事になる。
いやいや、こうして長年生きてきて、
見渡してみると、
確かに人が生きることは、
芸術的だと思いますよ。
そしてそれは、おおげさに芸術と銘打ったものではなく、
日々の暮らしの中で、喜んだり、悲しんだり、やっかいな人間関係に苦労するなかでこそ、
いぶし銀のような生きた言葉が、
その人のスクリーンに映像と重なり刻印されなるのだと思います。
そうして刻印された言葉と映像が、
いきいきと、人生の臨場感を
創り出すのだと、
思います。

今年の初朝顔です。
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