さて、ではまたアンデルセンのことを書いていきましょう。
実は7年前に私はユーチューブで、
もしかしたら「竹取物語」の作者は、バイセクシャルかもしれないと
言いました。
なぜなら、
かぐや姫は男と恋愛をしようとはしないのです。
そこがちょっと変だな~と思うのです。
お姫さまのお話なら普通はイケメンとの恋愛とかになりそうですが、
しかしかぐや姫は、男と恋愛しません、それどころか、
逆に女好きの男たちをもて遊びます。
特に権威のある天皇までを翻弄します。
それでは女とはどうか、というと、
それは全く匂いすらしません。
地上の人間を翻弄したあげく、
高貴なまま、天に昇ってしまいます。
なんか変ですよね。
実はこの竹取物語のかぐや姫、
なぜかアンデルセンの「人魚姫」と
似ています。
人魚姫も、どうにもならない恋の成就が、
天へ上ることなのです。
人魚姫も、王子への愛をあきらめて、
天に上って空気の精となります。
なんか、作者の立ち位置が似ていると
思いませんか?
だから私はもしかしたら「竹取物語」の作者は
バイセクシャルか、ジェンダーフリーもしくは、
トランスジェンダーの人ではないか、と思ったのです。
私たちは当然のように、
普通に何の疑問も抱かず、
しかも曖昧なまま
男とは○○、女とは○○という風に
それぞれのカテゴリーに入れてしまっていますが、
脳の世界から見ると、
男と女の間には、限りない変容のバリエーションがあります。
それは個々の人間というのが様々であり、
限りない脳のバリエーションを
持っていることに通じます。
バイセクシャル、或いは、ジェンダーフリーの人々、つまり
男でもあり女でもあり、或いは、
男でもなく、女でもない人々の中でも、
特に知性の高い人たちは、
もしかしたら、男と女を超越する
高次の領域までいくのではないか、と
私は思うからです。
男性性と女性性、さらにそれを超越した
第三の視座があるのではないか、と
思うのです。
そこはおそらく、
女というドメインと男というドメインが統合された世界が
肉体を超えた精神世界が
顕れてくるのではないでしょうか。
私は極めて特殊なケースとして、
バイセクシャルのアンデルセンだからこそ、
昔話やイソップやグリムやベローなどの童話とは
一線を画す、
あのアンデルセンの童話が生まれたと思っています。
バイセクシャルだから特殊ということではありませんよ。
アンデルセンのその両義性のことを見ないふりをして、
アンデルセンのことを語ってきたのが
これまでのアンデルセン童話の解釈であり、評論ですが、
私はむしろバイセクシャル、或いは、
ジェンダーフリーのアンデルセンをバンと中央に置いて
そこから彼の童話や自画像を眺めてこそ、
彼がほんとうに伝えたかったことが見えてくると思います。
この度、再度アンデルセンの小説3冊を読みました。
童話ではなく、小説です。
アンデルセンは小説も書いているのですが、
もう素晴らしいです。
描写については先般お伝えしたように、
まるで絵をみているように素晴らしいです。
小説の中はまさに、
アンデルセンが悩み、もがいて生きてきた軌跡が
ありました。
特に最後の小説「生きるべきか、死ぬべきか」は彼が
渾身の力で書いたと思います。
人間とはいったい何者であるか。
さらに人間の魂とは何なのか。
そして人間にとってもっとも大切なものは何であるか、を
自分の命をぶつけながら書いています。
そこに在るのは、まぎれもなく愛です。
それも<小さな愛>の世界です.
こう書くといかにもありきたりの様で
安っぽくなり、
私としては遺憾ともしがたいのですが、
そうではなく、
この<小さな>ということが
大変重要な意味を持つのです。
そして愛の世界です。
男と女を超越した第三の視座からみた人間への
その愛の軌跡を次回から、童話を通して
書いていきたいと思います。
ひなたぼっこ!
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