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映画「どこかに美しい村はないか」の使命!その1

いよいよきたか、と思ったのが、テレビのニュースで報じられた、

AIによるリンゴの収穫風景でした。

つまり、極端にいうと、これからは、

●人間から収穫の喜びが奪われていく時代が始まろうとしている。

映画「どこかに美しい村はないか」は、A I時代に対する警鐘として作ったことは、

皆さんがご承知の事と思います。

すべてにおいてそうなのですが、

多くの人々は、それが実際に目の前に現れないと、なかなかピンときません。

そう言う現実にさらされてやっと事態の深刻さが分かるのです。

A I時代になると、

・作る(生産)の喜びも、

・収穫の喜びも、果てには、

・人間の働く喜びも、奪われてしまう、と私は考えています。

だから今のうちに、この映画を撮っておかねば、と思いました。

林檎を栽培する佐々木さんや、郷土人形作家のヨシエさんや手づくり豆腐づくりの栄子さん。

田植えのばっちゃ達や、菊池青年夫妻を撮っておかないと、

もうそれらの姿も、技術も消えてしまう、と言う危機感がありました。

本当に映画にしておいて良かったです。

そしてもう一つ私の考えのポイントがあります。それは、

今は、デジタルが最先端として重用されていますが、 

これから、グリア細胞の研究がすすむでしょう。

グリア細胞は、アナログ的な働きを司っている可能性があり、

人間の素晴らしさは、

脳のアナログ機能にあるのではないか、と私は考えています。

※天才たちの脳はニーロンは一定数ですが、グリア細胞の数が多いことが分かっています。

もしかしたら、今のデジタル時代の先には、 

アナログ世界の凄さ、素晴らしさが解明され、

再評価される可能性があるのではないか、

私は思っています。希望も込めて、ですが。 

A Iテクノロジーが進む一方で、

アナログ世界の重要性もが認識されだした時、

或いはA I社会の反動として、

再びアナログ的世界が必要だと認識され出した時、

映画「どこかに美しい村はないか」や、

田之畑の吉塚さんの山地酪農の映画「山懐に抱かれて」の

出番がもう一度くるのではないか、と、思います。

これらの映画はその時、

きっと何かの力になると私は考えます。

A Iテクノロジーとは別の、

人間や産業の在り方の示唆としての力を発揮すると思います。

そこには、人間の底力が描かれています。

苦労はあっても、働く事の喜びや、収穫の喜びが。

身体を使い、知恵を使い、その全身を駆使して生きる逞しさ。

そして、自然と共にいきる大切さなど、

人間の充実や条理が描かれています。

児玉さんが絵に描いたように、

茨木さんの詩のように、

美しいのは人と人との力であり、

同じ時代を生きる喜びなのです。

それがA Iなんぞに奪われてなるものか、

と私は考えます。

自然と共に生きてきた人間の歴史が途切れないことを願います。

遠野を通して描いた映画「どこかに美しい村はないか」

人と自然とが協働して作り上げた美しい田園。

人間の暮らしを支え、見守った伝統的な神社やお寺や、

道の道祖神、そして民俗芸能。

厳しい風土を生き延びてきた素朴な人々の暮らし。

それは本当に大切なものです。

時代は大きくA Iを駆使した産業と、その対極に、

人間の労働による産業とに、二極化されていくでしょう。 

デジタルとはそういうものです。

そして、残念ですが、人間も、

賢い人間と、そうではない人間に二極化していくでしょう。

もし、A I産業だけになったら、

それは人間の終りです。  

しかし、きっと賢い人々は

人間にとって何が大切かに

気づくでしょう。

映画「どこかに美しい村はないか」は

10年後、30年後、50年後の時代を視野に入れて、

人々への贈りものとして、撮りました。

その時もう私はいないけれど、

能勢監督、頼みます。

そして遠野の皆さん、

皆さんの遠野を大事にしてくださいね。

※アナログ世界がなぜ素晴らしいかは、次回書きます。

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この記事を書いた人

作家。映画プロデューサー
書籍
「原色の女: もうひとつの『智恵子抄』」
「拝啓 宮澤賢治さま: 不安の中のあなたへ」
映画
「どこかに美しい村はないか~幻想の村遠野・児玉房子ガラス絵の世界より~」

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