このシリーズ2でいずれにしても、
A Iデジタル社会の短絡性はいつか限界が来るでしょう。
と、書きました。
確かに I TやA Iによる素晴らしい事も起きて来るでしょう。
その反面、
1、デジタル文化が、あまりにも情報が氾濫する為、
頭の中が忙しすぎて、人々の神経にストレスがかかりすぎること。
2、世の中が、A Iロボットに代理されていくことで、
人と人の協力関係が必要なくなり、どんどん人間が個々に分断されて行く事。
3、生きている生々しさがうすくなり、
自分の存在することの意味や価値感が乏しくなること。
(それは、翻って生きている実感が薄くなる。)
4、これまでのアナログ文化が途切れる一方で、
全く新しい I Tデジタル文化の成熟が未熟なため、
その目的地や、着地点が見えない事。
5、I Tデジタル経済は、いったいどうなっていくのかが、先が見えない事なども
起きてくる可能性があります。
以上のことは、私が考えた事ですから、まだまだ考えが足りなかったり、
間違っているかもしれません。
そして
人間の脳の前頭葉が成熟するのは人間が高齢になる頃です。
残念ながら若い頃は、まだまだ未熟で、半熟なのです。
だから、短絡しがちになります。
勿論、歳をとってもちっとも熟さない高齢者も沢山います。
しかしなんとなく人間や社会の現実がしっかり
見えてくるのは、やはり高齢で、もう人生の終わりが見えてくる頃です。
A Iテクノロジーが進んだ社会では、
人間の経験や、
失敗や挫折の中から現実のリアリティーに気づいてゆく機会が、
A Iロボットに
奪われる可能性があります。
つまり、未成熟に物事を短絡してしまう人々が増えるかもしれない。
私の危惧はここにあります。
だとしたら、
いたずらに時代に流されず、
今、このデジタル時代に於いて、
何が失われてはならないか、
逆に、何を獲得しなければならないかを、しっかり総括し、
考察する頭脳を持っていなければなりませんね。
そして
デジタルとアナログの統合としては、
シリーズ5で書いたように、
アナログ世界の産業をおこし育て、
地方都市を活性させる事ができたら最高です。
都市は不可避的にデジタル社会を突き進むでしょうから、
その都市とのバランスをはかるために
キーになるのはアナログ性を失っていない地方都市です。
素晴らしいことに、
遠野ではもうその芽が顔をだしています。
そうです。
あの小友の青年夫妻の、米作りです。
○
このシリーズが始まる前の記事で、
映画「どこかに美しい村はないか」は、
時代を先取りした前衛映画と書きましたが、
どうでしょうか。
その意味がお分かりいただけたら嬉しいです。
ピンとこなかった方は、次回最終回を!

コメント