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◆映画「どこかに美しい村はないか」の使命!その7、考察する頭脳を持つ!

このシリーズ2でいずれにしても、

A Iデジタル社会の短絡性はいつか限界が来るでしょう。

と、書きました。

確かに I TやA Iによる素晴らしい事も起きて来るでしょう。

その反面、

1、デジタル文化が、あまりにも情報が氾濫する為、

頭の中が忙しすぎて、人々の神経にストレスがかかりすぎること。

2、世の中が、A Iロボットに代理されていくことで、

人と人の協力関係が必要なくなり、どんどん人間が個々に分断されて行く事。

3、生きている生々しさがうすくなり、

自分の存在することの意味や価値感が乏しくなること。

(それは、翻って生きている実感が薄くなる。)

4、これまでのアナログ文化が途切れる一方で、

全く新しい I Tデジタル文化の成熟が未熟なため、

その目的地や、着地点が見えない事。 

5、I Tデジタル経済は、いったいどうなっていくのかが、先が見えない事なども

起きてくる可能性があります。

以上のことは、私が考えた事ですから、まだまだ考えが足りなかったり、

間違っているかもしれません。 

そして

人間の脳の前頭葉が成熟するのは人間が高齢になる頃です。

残念ながら若い頃は、まだまだ未熟で、半熟なのです。

だから、短絡しがちになります。

勿論、歳をとってもちっとも熟さない高齢者も沢山います。  

しかしなんとなく人間や社会の現実がしっかり

見えてくるのは、やはり高齢で、もう人生の終わりが見えてくる頃です。

A Iテクノロジーが進んだ社会では、

人間の経験や、

失敗や挫折の中から現実のリアリティーに気づいてゆく機会が、

A Iロボットに

奪われる可能性があります。

つまり、未成熟に物事を短絡してしまう人々が増えるかもしれない。

私の危惧はここにあります。

だとしたら、

いたずらに時代に流されず、

今、このデジタル時代に於いて、

何が失われてはならないか、

逆に、何を獲得しなければならないかを、しっかり総括し、

考察する頭脳を持っていなければなりませんね。

そして

デジタルとアナログの統合としては、

シリーズ5で書いたように、

アナログ世界の産業をおこし育て、

地方都市を活性させる事ができたら最高です。

都市は不可避的にデジタル社会を突き進むでしょうから、

その都市とのバランスをはかるために

キーになるのはアナログ性を失っていない地方都市です。

素晴らしいことに、

遠野ではもうその芽が顔をだしています。

そうです。

あの小友の青年夫妻の、米作りです。

     ○

このシリーズが始まる前の記事で、

映画「どこかに美しい村はないか」は、

時代を先取りした前衛映画と書きましたが、

どうでしょうか。

その意味がお分かりいただけたら嬉しいです。

ピンとこなかった方は、次回最終回を!

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この記事を書いた人

作家。映画プロデューサー
書籍
「原色の女: もうひとつの『智恵子抄』」
「拝啓 宮澤賢治さま: 不安の中のあなたへ」
映画
「どこかに美しい村はないか~幻想の村遠野・児玉房子ガラス絵の世界より~」

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