私の尊敬する加藤孝一画伯は、中央画壇が大嫌いであった。
画伯はそんなものには目もくれず、
画伯の絵は抽象画であったが、
そこにはほんのりとした色気やユーモア、そして気品があった。
私も中央の文壇のギラギラが大嫌いであり、さらにヤクザまがいの出版の世界と,
それにマインドコントロールされる大衆読者も、どうでも良くなり、
いつの間にか現代小説も、文学雑誌も一切読まなくなった。
その一方で、中央とは遠く、むしろ地方に根を置く平松さんの様な作家に出会い、
惹かれだした。
平松さんの岩手日報に書かれたコラムには、
少年伸一郎の故郷釜石への郷愁の風が吹いている。
またその甥御さんの旅館の話しを聞いた時も、いいなぁ〜と思った。
このいいなぁ〜というのが、
私のすべてであり、
この言葉でしか現せ得ない共感と同調がある。
ベタベタと言葉を尽くしたくないのである。
平松氏は、映画「どこかに美しい村はないか」の釜石上映をプロジェクトしてくださった時も、
わざわざ遠野まで足を運び、いつのまにか、町にポスターが貼ってあった。
その飄々たる姿がいいのである。
いかにも何気なく、普通に当たり前の、その生き方が、いいなぁと、私は素敵に思う。
書くという事は、その言葉、その文章の中に全てが表れる。
その時、いかに清流に棲む鮎のようであるか、
その上空には、
清々しく風が吹いているか、いないかが
容赦なく伝わっていく。
反対に、ベタベタ、ギラギラの作家の油分が、私はごめんなのである。
だから中央大衆が賞賛するものに私はそっぽを向く。しかし
時に、地方で、
ハッとするような清々しい文章に出会う。
それが平松さんのコラムだったり、先般ご紹介した、
遠野の民宿<わらべ>の訪問記事だったりすると、
私は思わず、
いいなぁ〜と、心がザワッとする。
勿論いい意味でね。
3.11の津波の事を綴られた山がら文庫の前田さんの文の前には、
こうべを垂れるしか無かった。
しかし
いいなぁ〜と思った。
いいなぁ〜と思いながらも決して安直には近寄らず、
私いつも、遠くからその姿を見て、
そんな風に自分もなれたらと、
密かに憧れていた。
平松さんの事も私は遠くから見ていた。
このたびの訃報、本当に残念です。
ご冥福をお祈りします。

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