高速東北道下り、花巻から右に折れ、復興道を進むとやがで左眼下に美しい遠野が見えてくる。
どういう訳か、それはその前の花巻とも、その先の大槌,釜石とも違う美しさである。
実のところ自分でも、はっきり説明がつかないのに、
なぜかその美しさに見とれてしまう。
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若い頃,同人誌仲間から、パッチワーク人間と言われて、常に話が飛躍していた私の頭がある時、
その飛躍した状態の点が、
一気に繋がり一本の文章としての線となりました。
以来、文章を書き始めました。
それには周囲の人間も、私の母親も
驚いたが、
一番驚いたのは私自身です。
自分には文脈をつくる論理性が欠けていると思っていたからです。
その時書いたのが、宮沢賢治の「春と修羅」の序についての評論です。
と同時にその時、
人間とは現象であるという賢治の言葉も、はっきりと理解できたと記憶しています。
人間は現象であり、脳も体も常に変化する一回性の中を生きている、ということです。
また、
自分の意識とは別に、自分が無意識に収集したデータを、
脳が自動的に編集していくことにも気づいたのです。
だから、
自分の意識で、
文章をこねくりまわすのではなく、
まるで、天から降ってくるように、
脳から降りてくる言葉を待ちました。
同じように、あるイメージが、どうしても自分を衝き上げ湧いてきてしょうがない、という事も
起きてきました。
そこには、自分では意識できていないが、ある重要性があると、
私の脳が察知していると言うことです。
最初に書いた高村智恵子についての本「原色の女」も、
言葉とイメージが,次から次へと天から降ってきました。
ただ,この本の内容は一般には余り理解されず、
ようやく35年後にTVで放映され、やっと理解される事となりました。
遠野の映画をプロデュースした時も、これをやらねばならないという衝動が湧き上がり止まりませんでした。
単に映画を作るというだけではなく、
自分の功利を超えた深い意味があるのだろうと考えました。
またこの映画の真の意味の内容も、
もしかしたら、
2.、30年後にその答えが一般に理解されるかもしれません。
私としては、人間にとって最も大切なことを映画で残したように思います。
多分それは,ミレーの絵「落穂ひろい」や「種蒔く人」ように、
人間の存在と魂と労働の原風景のようなものではないか、と
思います。
花巻を右に折れ,復興道路の先に、
ポッカリと見えてくる遠野、
その雲に、その空に、山に、田んぼに畑に,そして人家に、
私の脳が反応し、
何か意味があるのだと思います。
何か、大きな、大切な意味が、
あるのだと、
思います。
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