アンデルセンは、なぜ異父姉のカーレンと「赤い靴」を書いたのでしょうか。
それは、もしかしたら、漸くカーレンを受け入れる気持ちになったのではないかと、
私は考えます。
14歳でわずかなお金を懐に入れてコペンハーゲンへと乗り込み
、
苦労してやっと作家の地位をえましたが
、
彼の中には、カーレンや、母親や、自分の貧しい出自の事が、
いつも喉元に刺さった小骨のようにあり、それに脅かされていたと思います。
31歳のときに発行された小説「o・T」では、主人公は、自分の出自の秘密と、
生き別れになった妹の亡霊に脅かされます。
さらに翌年発行の小説「ただのバイオリン弾き」では、
才能に満ちながらも、失恋し、上昇を諦めたバイオリン弾きがでてきます。
「即興詩人」で成功を手にしたにもかかわらず、
その心の淵にある暗い陰とずっと格闘していたのではないか、
と私は思います。
ただ、それも、少しずつ乗り越えて「みにくいアヒルの子」を
1年かかって書き上げ「雪の女王」で、
いよいよ自分の女性性を全投入し、万全になった時、
あのカーレン・マリーが現れました。
たしかに最初は怯え、ヨナス・コリーンに助けを求めたましたが、
実際に会った時、
逆にコリーンが生きてきた逆境の人生の厳しさを、
ハッと理解したのではないでしょうか。
その時、むしろ、貧しい貧民階級の出身である自分だからこそ、
貧富や身分階級を超えて人間を見ようとする事ができる自分にきづき、
覚醒していったのではないか、と思います。
そして、もう時代は、生まれながらの平等や、自由の機運の中あるのに、
いまだに古いキリスト教会の因習の中から出ることがない頭の固い人々に、
むしろキリストが伝えようとした神の恩寵とは、そんなものではない、と
言いたかったのではないか、と思います
そうなると、最後の一行の
「そこでは誰も、赤い靴のことなどたずねるものはありませんでした。」の言葉が、
凄みを持ったエッヂとして効いてきます。
いつの間にか、教条主義的になってしまったキリスト教世界ではなく、
人間は、生まれながらにして平等であり、さらに
貧富の差や、身分、階級を超えて、その存在が祝福されている、と説いた
新約聖書のイエスの視座に立ち戻り、
カーレン・マリーや母親や、人々を描こうとするアンデルセンがいます。
そして赤い靴を書いたあとは、自分の自伝を書き上げ、
今度は、お母さんの事を託して「マッチ売りの少女」を書きました。
次回それを書きます。

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