アンデルセンのその小さな愛のせかい7,彼がほんとうに伝えたかったこと!

さあ~いよいよアンデルセンがほんとうに伝えたかったことは何か、に

触れていきたいと思います。

そして彼の童話の真髄とは何か、について書きます。

実はアンデルセンの童話で、

一般にはほとんど知られていないが

彼の思想を見事に書いたお話があります。

それは「最後の日に」という童話です。

でも、童話にしたら、ちょっと恐ろしく、難しい内容です。

物語は、キリスト教の敬虔なる信者として人生を全うしたと思い込んでいる

ある人に、とうとう死の天使のお迎えがきます。

彼は、自分は宗教の掟を厳格に守ったので、

当然、神の天国の門が開く、と思い込んでいました。

ところが天国へと向かう途中で彼は天使から、

自分の醜い、そして数々の悪行を見せられます。

その醜い、悪い行為とは?

天使は最初に仮面舞踏会を見せます。そこでは誰一人として

仮装していない者はいませんでした。

それを指して天使は、

これが人生というものだと言います。

つまり人生は偽善に満ちているという意味でしょうか。

そして次に天使は人間は誰でも自分の中に動物を飼っているといいいます。

その動物とは、むきだしの欲望や攻撃性や支配欲やなどなどを差し、

この人の中には高慢なクジャクがおり、

その言葉や行為で、不用意に他者を傷つけていたのです。

おそらくこれは自我世界のことだと思います。

そして彼は、次々と自分の行為を見せつけられていく中で

やっと気づいていきます。

彼は言います。

「私はすべての戒律を厳格に守りました。

 私は世間の人の前でへりくだりました。

 私は悪と悪人を憎み、またそれを責めました。」

しかし、しかしそれは、

ほんとうのキリスト教の信仰ではない、と天使は言うのです。

それは神の意志に背く、

禁欲的に自分も他者をも縛り、裁くものであり、

もう皆さんはお分かりですね、あの「赤い靴」のカーレン・マリーを

裁いた人たちと同じ信仰であったのです。

天使がいいます。

「キリスト教の教えは、和解と、愛と、恩寵である」と。

この人は天使からそれを突き付けられ、

自分の傲慢と冷酷の罪に、身震いし、うなだれます。

その時、

思いもよらず天国の門が開かれます。

光が彼を包みます。

以外にも、神が彼を慈しみ、愛し、その恩寵のなかで包み込むのです。

それは彼が反省したからではありませんよ。

神の恩寵はすべての人に注がれるからです。

つまりこの世でいかなる人間であろうとも、

神はその人を永遠の愛で愛おしみ、清め、包み込むのです。

アンデルセンの物語の底流にあるのは、

いかなる人間に対しても愛を注いだキリストの愛の世界です。

小さな個人の上に注がれる愛の世界です。

人間は、たとえ善人であろうと、また悪人であろうとも、

その苦しみを分かるものはいません。

その人間の人生の全容を知るのは神のみです。

聖書には、

「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。

しかし、わたしは言っておく。

敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。

あなたがたの天の父の子となるためである。

父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも

雨を降らせてくださるからである。」

と書いてあります。

つまり

他者を赦し、和解すること。

そしてたとえこの世で悪を犯し、

法律や掟で裁かれた人間でさえも、

それは神がこの世に送り出した大切な人間であること。

だからこそ、

神だけは彼を見捨てず、その恩寵の中に包みこむという

まさに新約聖書のイエスの世界です。

このことは仏教においても、同じように

浄土教の中では阿弥陀如来が、すべての、一切の衆生を

救いだす、という事があります。

例えば、京都の広隆寺の阿弥陀如来は魚の投網で、すべての人間を

救い出すとあります。

宗教の真髄は救いと浄化にあると、私は考えています。

なぜ、アンデルセンがそのことを童話で伝えようとしたかについては、

アンデルセンが生きた時代の背景を知る必要があります。

アンデルセンの童話の表面だけで見るとわかりませんが、

彼の生きた時代の思想と宗教の混乱を背景に

大変悩んだと思います。

そのことは彼の小説「生きるべきか、死ぬべきか」に書かれています。

18世紀から始まった市民革命と産業革命の中で

自然科学や、社会科学の発展、更にや物理学、天文学、医学など、

さまざまな 文明の近代化が興り、そこには新しい思想。哲学が

雨後の竹の子のように生まれてきました。

その事で、それまでヨーロッパを蔽っていたキリスト教の教義は

足元から揺すぶられ、批判と崩壊の危機にさらされていました。

つまり後にニーチェが「神は死んだ」と書いたように

新しい科学の認識に基づいた唯物論や唯物史観が生まれてきますし。

そしてキリスト教自身も、本来のイエスの説いた世界から

大きく逸れ、教条的なドグマに支配されてしまっていたからです。

そんな中で人間の魂とは、という議論が生まれてきます。

人間の体と脳の解明が進む中、果たして人間の魂とは何なのか?という

大きな命題の中でアンデルセンは悩み続けたと思います。

しかし、その結果,アンデルセンが辿り着きついたのが

自分が生きる指標としての

イエスの愛の世界ではなかったかと思います。

人間の存在そのものが丸ごと神に愛されていること。

大切なのは、自分も相手も赦し、和解すること。

そして自分の中の小さな愛の芽を育て人を愛することです。

実は同じように19世紀の近代化の中で翻弄され、悩み、しかし

アンデルセンと同じような境地に辿りついた作家がいます。

それはロシアの作家、ドストエフスキーです。

次回はそのことも含めて書き、できたら最終回にしたいと思います。

溢れるほどに光を求めて咲いてるよ!

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この記事を書いた人

作家。映画プロデューサー
書籍
「原色の女: もうひとつの『智恵子抄』」
「拝啓 宮澤賢治さま: 不安の中のあなたへ」
映画
「どこかに美しい村はないか~幻想の村遠野・児玉房子ガラス絵の世界より~」

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