人間常に二律背反の中を生きている。
ひとつは極めて個人的な自分と、
もうひとつは、社会の中の自分であり。
本能的感情反応をする辺縁系の部位
(喜怒哀楽の感情と食欲、性欲、物欲、所有欲、不安、恐れ、攻撃、対立、防衛、などなど)
と
人間が人間たる理性の反応をする前頭葉の部位
(理性や知性の働き、考察力、調和、高邁な事に感動し、攻撃を律し、共存、共生する知恵などなど)
の、二律背反の確執の中を生きています。
いつも自分の中に、相反する二つの人格が、責めぎあう、という、
脳のメカニズムがあるからこそ、
人間は苦しいのです。
人間は、意識だけなく、無意識領域があり、
殆どは無意識領域で反応しながら生きている、という事を発見したのが
フロイトです。
以来、文学、哲学、思想領域では、
この心理学をベースに、
無意識にある自分の内面を相対化することが作業されてきました。
ところが脳の力関係といいますか、
パワーバランスは、
圧倒的に、辺縁系(感情系)の方が強いのです。
感情系のスイッチがはいるともう、
そこで興奮し、理性のスイッチがなかなか入りません。
だから、当然のように、文学では、
感情領域ばかりが焦点化され、
ストーリー化されてきました。
残念ながら日本の文学は、ほとんどがこの感情系に走っていき、
それは現代も続いています。
そんな中で、漱石だけは、むしろ常に感情領域には、毅然と理性領域を相対させ、
両領域を、等しく対比させながら小説を書いていったと思います。
なぜ漱石だけが、辺縁系、感情系文学に陥らなかったかと言うと、
●彼が2年間イギリスに留学して、実際に西洋文化と文学に直に接した事。
●漱石には、まだ江戸の文化と文学の感覚、感性がしっかりと残っていた事。
●そしてそれまでの日本の歴史的文学や思想や宗教の中に底流している、
仏教や老荘思想や禅の教えなどが、
漱石の中で立体化し、
安定したひとつの覚醒としてあったからではないか、と思います。
それにくらべ、ともすると、自分掘りの感情的文学はいかにも軟弱です。
さらには
産業革命後のイギリスの姿は、
科学的進歩はあっても、
人々は自然から疎外され、都市の荒廃した文化を、実際に目にした漱石は、
日本人とは明らかに違う西洋人の
気質に対する違和感を感じたと思います。
これは私の主観ですが、
彼の小説「倫敦塔」などをよむと、
イギリス人とイギリスの歴史の
どう見ても残酷で獰猛さには、漱石は不快感を示しているようです。
そういう下地の中に、漱石の
果たして産業革命による西洋近代社会は、
是であるか、非であるかの検証と考察が生まれたと思います。
一方では人間の関係性と心理を分析しながら、
一方では、人間とは何かの哲学を模索して書く。
また、20世紀の科学にもとづいて工業化し、進化しといく社会は
果たして人間の幸福につながるのだろうか、という大きな命題に、
取り組んだと思います。
「行人」では、気が狂いそうになりながら、それを追求した漱石がいます。
恥ずかしながら、私はこの歳になって漸く漱石の本流が分かり始めました。
また脳を独学勉強するうちに、
AIの登場で痛烈に人間の危機を感じてましたが、その時やっと
漱石が「行人」で指摘した言葉の真意を理解しました。
◯
シリーズ「終わりを意識して書く」の次回は、
山極寿一先生の「人類はどこで間違えたか」をベースに書きますが、
その前に、今日は、
なぜそれが漱石とつながるかについて、
書きました。
このシリーズは少し難しいので、
ブログ掲載にし、Facebookでは
読みたい方だけが読めるようにしています。
まだまだ続きますが、良かったら

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