芸術はそれぞれの人が、それぞれの心を以て見るものだと思うが、
私の場合、その作品に対する深い感慨が立ち上ってくるときは
美しいなあ~という感覚と
愛おしいなあ~という感情が、
川底にながれる澄んだ水のように私の心に起きてくる。
作品の表面の装いというかふるまいを通して
その裏に、まるで写真のポジとネジのように
描き手の人生が見えてくるのである。
作品が押し付けてくるのではなく、
神の手のようにそこに映し出されるその人の光と影が
私の内部で、さざめき、感情に静かな火が発火する。
或る時、アンドリューワイエスの作品展を見て、
作品の底流に流れる、
静かで美しい人間へのまなざしを感じた。
以来、彼の作品展を何度も見た。
画集を買いその中で、
彼の友人であるコーナー夫妻の絵を見た時、
心の中いとおしさがこみあげてきた。
冬の真っただ中、
狩りに出かけるコーナー氏と、その後ろに帽子を被った
コーナー夫人が続く。
そして、夫の後に続くコーナー夫人が、
おそらく認知症であろうことを、私は直観的に読み取った。
その時私は、この絵とコーナー夫妻にたいしての
愛おしさの感情が湧いてきた。
もしかしたらワイエス氏も同じような感性で
この絵を描いたかもしれないと、思う・・・私の思いこみであるが。
もう一つの作品は画集でしか見たことがない
アフリカ系アメリカ人の少女キャシーの絵のである。
そこにも、
そういう彼のまなざしを感じる。
同じように半身不随の宿屋の女性オーナー、
クリスティーナとその弟アルバッロへの
まなざしの中にも、
おおげさでない、静かに流れる作家自身の人間への共感を
感じる。
それは、日本的な美の世界に似ている。
西洋、アメリカ人には珍しい、そぎ落とした世界でもあり、
それに続けて私は、春の新緑の中にたたずむ銀閣寺を思う。
小高い丘の中腹からみる銀閣寺は、
初々しい若葉の中で、ただ立っているだけの銀閣寺である。
装飾がはげ落ち、茶色の銀閣寺が、
緑の若葉の海の中にまるで、水辺の葦のようにポツンと建っている。
そこからは、道元の炭と灰の世界へと入っていく。
熾りの火が落ちて、灰になっている炭の美しさである。
そこには生と死が、同時に同格にあると、道元はいう。
人間の孤高の世界を見つめるそのまなざしの奥に
美しい、そしていとおしいものがある。
これもひたすら私の思い込みの世界でもある。
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