桜の花が散ることすら美しいと感じる日本人。
それはとても素敵なことなのです。
同様に
真っ赤に燃えた炭だけではなく、
灰になった炭の姿にさえ、存在感や美しさを感じるその感性が
素敵なんです、と私は言います。
なにげなく日常の中にあるそれらが、実は美しい、愛おしいということです。
昨日書いたように、なぜ、
ワイエスの絵と銀閣寺とそして道元が不連続につながっていくかというと
彼らはみんな
そこにそれが在る(存在する)、ということが、
無条件に美しいということを
言っているからです。
ワイエスは日常の中にさりげなく存在するものを、ほんとう美しく描きました。
何気ない風に飛んでいるゴミさえも、美しく描きました。

大げさではなく、ごく普通にそこにあるもの。
それは決して王宮でもなく、宝石でもなく、豪ジャスでもなんでもない、
むしろ、捨て去られたものも、何の価値もないとされたものでさえ、
その存在が美しい、愛おしいということを、
ワイエスが絵で芸術化し、道元は、
それを思想化したのだと思います。


同じように人間も、
誰であろうとも、いかなる人も、
その<存在が>無条件に美しいということでもあります。

なにか世俗的な価値があるからとか、
利があるからとかではなく、
ア・プリオリに、何にもまして、存在が、それでいいのです。
豪華な金閣寺ではなく、風にゆれる葦のような銀閣寺を見るたびに
私は日本の東山文化と、
それを作り出した日本の先人たちの感性に
感嘆するのです。

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