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エッセイ46、自分の為のメモ,その1漱石、龍之介、道元!

私の拙い読書歴の中で、

人間とは何かについての考察の深さでいうと、まずは漱石。

漱石は深く深く井戸の底近くまで人間を掘り下げていった。

その次に見えてくるのは芥川龍之介。

しかし芥川は一種プレイボーイのような相も見えるので、

その分、漱石より浅い。

漱石の人間追求の根底には

母性への憧れが見える。

それは母性を通しての胎内回帰への憧れかもしれない。

胎内回帰は翻って生への希求でもある。

芥川の中にも胎内回帰があるがしかし、彼は寄り道をしてしまった。

その分の浅いところで彼は行き詰まり、回答を見いだせないまま自分を許せず、

自死へと逃れてしまった。

そこにもしかしたら芥川の甘さがあったかもしれない。

ただその感覚と感性の芸術性は、

漱石より鋭い。

漱石や芥川とは違う次元で、

艶やかで素晴らしい認識論を展開したのが道元で、

その言葉の表現の芸術性は一幅の絵のような色彩さえ感じさせる至高のものだと、

私は思う。

私の中では,三島や太宰などは、その俗性において、

漱石や芥川の足元にも及ばない。

太宰も三島も一応胎内回帰を目指したが、

女性幻想と自分のナルシズムを脱することができていない。

漱石も芥川も、

俗性をはねのけ寄せ付けなかった。

俗性とはこの世のあれこれであり、

大概の作家は世の様と人間関係のもろもろとその感情世界を描く次元で終わっている。

しかし人間追求が深く真の知の領域まで行き着くには、

疑心、絶望、虚無の只中を、

理性を突き刺しながら通らざるを得ない。

私には、三人ともがその先に僅かに見える光を見ていた気がする。

見ながら芥川はその光まで手が届かず、

道元は光の奥にいまだドロドロと蠢く人間の泥土に絶望して,

その途中で命尽きた気がする。

ただ一人漱石のみが光の奥にある温かい温度を掴み、

掴みながら死を迎えたように思う。

これはあくまでも私個人が掴み得た幻想かもしれないが。

何ものにも代え難い至福であると私は感謝している。

そしてもうひとり、ドストエフスキーも含めて、

この大いなる先輩方を仰ぎ見ながら、

その思惟の中に私もが沈みこみ、

微かな光を得たことを

感謝している。

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この記事を書いた人

作家。映画プロデューサー
書籍
「原色の女: もうひとつの『智恵子抄』」
「拝啓 宮澤賢治さま: 不安の中のあなたへ」
映画
「どこかに美しい村はないか~幻想の村遠野・児玉房子ガラス絵の世界より~」

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