私はフェミニズムという言葉が嫌いだ。
そもそも、何何イズムということが嫌いで、
人間も人生も時代も、
単純ではない。
このところ夢から醒めて本当の現実に立ち向かえと、
私が真から伝えたいことを書くことができて、ホッとしていた。
ホッとしたところに映画評論家の谷岡雅樹さんから、凄みのある封書が来た。
中には映画のチラシと彼が図書新聞に寄稿した記事のコピーが2通入っていた。
その1通は、
熊谷博子監督のドキュメンタリー映画「かづゑ的」を見ての論評で、
読んだ瞬間から女の本質はこういうことだと、思いました。
映画はまだ見ていません。
しかし谷岡さんの論評を読んだ。
◯
映画の主人公であるハンセン病のかづゑさん。
明治の「癩予防法」以来の、ハンセン病に対する、
隔離と偏見と差別の中を苛烈に生き抜いて来られた。
その人生と生きざまに首を垂れるしかない。
人が生き抜く現場というものは、本当は言葉に例えようがない。
安易にたとえてはいけない重さがあると思っている。
凡庸にみえる日々も、実は凡庸ではありえない。
また、苛酷で簡単には足が抜けない泥沼のようであっても、
そこで生き抜く生命の凄さがある。
冒頭に書いたように、
人間が苛烈な現場を生きるとは、
そして女が女の性を生きぬくとは、
フェミニズムなどで括れない。
女の生きざまの次元は、
そういう安易さを超越してある。
チラシには
「私、みんな受けとめて、逃げなかった。」
とある。
熊谷博子監督は、
「この人生を撮って残しておかねばと、心に決めた。」とのこと。
実は私もこれから来るAI時代には、消えてしまうかもしれない
<どこかにある美しい村>を
今撮って残しておかねばという強い思いに駆られて映画をプロデュースした。
これから来るAI時代には,もしかしたら田んぼがソーラーだらけなり、
農地は野菜工場になるかもしれない。
2、30年後には、
人間と自然と協働して創り出された美しい田園風景が消えてしまうかもしれない、と。
私は、
茨木のり子氏の詩「どこかに美しい村はないか」こそが、
この詩の場面こそが
自然と人間との最も美しい調和がありかつ,
人間の幸せを謳っていると考える。
2、30年後にこの映画を見た人々が、
日本とは、こんなに美しい国であったかと、思ってくれたら幸いです。
そ、し、て、
撮影時、
さまざまな苦労や重労働を潜り抜けて生きてきたであろう、
田植えをするばちゃや、
田の草取りをするばっちゃたちの、
あの朗らかこそが、
女(フェミニズム)の原点であり、原風景だと感動した。
今回どうも谷岡さんは、
私を時代と戦う女達の片隅に加えてくれたらしい。
じゃあ、戦わなくちゃね〜。
※今一本の映画と動画をプロデュース中です。
そして、映画「かづゑ的」
谷岡さんが「観てくれ、その声に耳を傾けてくれ」と悲痛なまで訴えていることを、
お伝えします。
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