言葉は生きものです。と同時に私達は言葉に守られているのです。
その最も素晴らしい例が憲法です。
人間は放っておくと無意識にある本能で生きてしまいます。
その本能の欲望や自我のエゴを
コントロールするのが意識の中に浮かぶ言葉なのですね。
社会や集団や組織、大きくは国家などが、秩序と調和を保てるのは、
実は見えない言葉の意識の袋(環)の中にいるからです。
憲法などがまさにそれにあたります。
そういう共同の言葉の大きな環というか袋というか、
そういうものがとても大切なのです。
それは普段は意識されなくても、
ちゃーんと無意識の中で効いていて、私達の行動の規範や原理になっています。
例えば私達はもう当然のように思っていることも実は、
この国の憲法13条に以下のように明記され,国民が守られている言葉です。
「すべての国民は個人として尊重される。
生命,自由及び幸福追求に対する国民の権利については、
公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」
◯
これは、漠然でも偶然でもなく、そして自然のながれでそうなったのでもなく、
日本人が艱難辛苦の歴史を紡ぎながら、戦争と原爆という痛ましい犠牲を払い獲得した、
日本人としての在り方と権利です。
そしてこの憲法が崩れると、
日本の国も崩壊していきます。
さらに、もうおわかりかと思いますが、
憲法の言葉は、はっきりと〜であると,言い切っています。
だからこそ、
その価値が生まれ、
私達が守られているのです。
どうでしょう。
憲法は、〜だと思っていて、とか
〜でよかったですか、などという
ごまかしの語法を使っていないでしょ。
勿論、憲法や法律の言葉は,
日常語とは次元の違う言葉です。
しかしひとつだけ言えるのは、
憲法も、
例に出したような、自分の意見の表面も、接客の言葉も、
そこには人というものが
はっきりとした意志と責任感で,
向き合っている、という事です。
言葉の責任の所在がはっきりとしているのです。
しっかり国民に向き合っている憲法も、
意見の表明も、接客の言葉も、
まさに私とあなたが、
向き合い作り出している、
大切な言葉な世界です。
そして、
そこに、その人の意志と責任感が際立つ時、
そこに尊厳が生まれ、
その人への尊敬になります。
だから安易に言葉をごまかしては
いけないのです。
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