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ひこばえが見えた、その4

さあ〜,やっと今日からコロナ感染解除になります❗️

私自身、人間がどうやら現象であると分かってきたのが三十歳後半か、40歳始めの頃だったと思います。

今77歳ですからほぼ40年近く前です。

そしてそれを鮮明に理解したのは

宮沢賢治の詩「春と修羅」の序を読んだ時でした。

つまり人間の脳現象は一瞬一瞬の絶え間ない電気現象であり,

その電気現象による映像が脳の中でニューロンの電気信号にコード化され、認識,認知として記憶される。

脳の中で現象化される認識は、

恒久的なものではなく、賢治の言う通り、時代や外的世界によってその認識が変わってゆく。

それまでは難解で分からなかった彼の詩が、氷が溶けるように一気に理解できました。

ただ私自身そこから一気に脳科学世界へと突っ込んだのではなく、

いろんな事情があり、 

家族の為にユング心理学,フロイトの交流分析等でカウンセリング学を迂回しながら、

脳科学、地球物理学、素粒子論などの本を片っ端から爆読みしました。

その一方で,自分の心理と脳現象を常に手探り的に相対化しては、

実験的に分析し、

50代になって,なんとなく脳とは何かが掴めてきたような,という次第です。

そしてこの10年あたりから脳の研究は目覚ましい発展をしましたね。

それは、私が常に自分の脳現象を相対化しながら、

おそらくそうではないだろいか、という、

極めて素人的ではあるが,ある確信していた事を証明してくれました。

私達人間とは、

脳の電気現象と身体の分子生物現象が常にパラレルに交流しながら、

生命現象として維持されている。

その生命現象として進化させてきた文化と文明は、 

脳現象の外在化としてテクノロジーを創発し、

今日のA Iまでにもたどり着いた。

そのA I(人工知能)がいよいよ出現可能になった時私はある種の危機を感じました。

それは、いずれはA Iが人間を超える能力を持つという,シンギュラリティに対してではありません。

そうではなく、

人間の能力が退行していくのではないかという、危機感です。

人間の知能は、

人間が指や手足を使い,身体を使いながら、

五感を始め身体の感覚や体験,そして経験から入力された情報によって形成され、

さらにそれらがディープランニングされ精製されながら成熟していきます。

人間の知恵と知性はまさに人間が失敗したり,挫折したりして「解(答え)」見つける体験をする中でこそ、

人間は成長し,成熟していくのです。

しかし高度にA Iが答えを出してしまう社会においては、  

人間の知能が成熟するプロセスをA Iに奪われてしまうかも知れないという危機感です。

特にこれまで人間が担っていた労働がA Iロボットに代行されたり、

思考することがA Iに代行されてしまうことは、

もしかしたら

その利便性や効率の良さの代償に、

人間の能力が劣化するのではないか、という懸念がわきました。

特に労働ということは、

他の自然体験にくらべ直接的な利害が絡みますから、

脳神経はより緊張を孕みます。

さらに労働によって得られる収穫や収入は、

人間に喜びをあたえ、次への意欲も生まれます。

実は、この意欲と喜びこそ、

A Iには絶対あり得ない、

人間が人間たるファクターなのです。

A Iは莫大なデータを駆使して答えや数値をだします。

またその莫大なデータによってディープランニングされた中から、

仮想的感情を提示することはできますが、

A Iには感情や意志や喜びはありません。

これこそが決定的に、

A Iには無くて、人間だけにしかない世界なのです。

つまり労働は、

人間は自分の脳の知能や智力を磨き上昇させる為の大きなファクターです。

その労働をA Iに代行されてしまうと,人間は大事な成長プロセスを奪われてしまいかねません。

人間の脳は、少しリスクがかかったものを好み、

そのリスクを超えてゆくことに意志を発揮し、喜びを感じます。

この意志や意欲、そしてそれらが成就した時の喜びは、

脳の側坐核から分泌されるドーパミンによるものです。

A Iはあくまでも人工的神経細胞を発火させているだけであり、

そこに喜びや意志や意欲を発生させているわけではない。

私は考え続けました。

確かにA Iの出現よって科学テクノロジーは更に進み、

医学の世界や食糧の生産、そして人口減少による労働力の減少をカバーすることは可能になるでしょう。

イーロンマスク氏のように,人間の脳や身体にA Iチップを埋め込み、人間が更にその脳力(能力)を拡大できるとする人々や学者もいます。

しかし私は首を傾げます。

それは人間を幸せにするのであろうか。そして

人間は本当にそれを望んでいるのだろうか!と。

ここで,立ち止まり,考察する必要があるのではないか。

果たして人間はこれ以上の文明を望むいるのかどうか。

産業革命以来のこの200年を今、

総括する必要があるのではないかと。

長くなりましたから、以上のようなことを踏まえ、

私はなぜ映画「どこかに美しい村上はないか」を作ったかを、 

その深い意味を次回

書きます

大事なことなので、

是非お読み頂けると嬉しいです。

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この記事を書いた人

作家。映画プロデューサー
書籍
「原色の女: もうひとつの『智恵子抄』」
「拝啓 宮澤賢治さま: 不安の中のあなたへ」
映画
「どこかに美しい村はないか~幻想の村遠野・児玉房子ガラス絵の世界より~」

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