「マグノリアの木」は、宮沢賢治の童話のタイトルです。
そして人生は、こういうことだろうなあ~と私は思うのです。
厳しい山の崖や、深い谷を越えてきた諒安という青年がいます。
彼はやっと頂上の平らな枯草のところへ辿りつきます。
なんと険しいところを渡ってきたのだろうと、ふと振り返ると、
その越えてきた山や谷いちめんに真っ白なマグノリアの花が咲いています。
その時歌が聞こえてきて天の子供らがあらわれさらに
自分と同じくらいの人が表れ対話がはじまります。
マグノリアの木は、<寂静印>ということの象徴であり、
それは、苦しいことを乗り越えた末の静かな涅槃の悟りの境地であることが語られます。
おそらく、生きるとはこういう事だろうな~と私は思うのです。
童話の中で、諒安と覚者らしきと思しき人は、
人間に起きる不幸なことはすべて、最後は善の世界へと収斂されていくと語ります。
いかなる人もその最後は善であると。
私もそう思います。
実はこの二人は不思議な会話をします。
「あなたですか、さっきから霧の中やらでお歌いになった方は」
「ええ、私です。またあなたです。なぜなら私というものもまたあなたが感じているからです。」
「そうです、ありがとう、私です、またあなたです.
なぜなら私というものもまたあなたの中にあるのですから。」
この対話は見事に脳の世界をも顕わしているように私は思うのです。
脳の視点からみた人間の根源的な姿のように思います。
勿論賢治はそういうことを気づかずに、書いているのですが、
そこが、賢治の洞察力と考察力の凄さです。
この対話が何のことやらと、思われるかもしれませんが、長くなりますので、今日はここまでにし、
その事は次回書きます。
胸のしこりが見つかり、検査をする中で、夜ふと、この童話のことを思い出したのです。
つづく。

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