この二ヶ月の間、自分の人生の終着を遠望しながら、
考えた時に、ふと宮澤賢治の童話「マグノリアの木」が浮かびました。
人は誰も、どんな人もその人生は決したやすいことではありません。
賢治が諒安を祝福したように、
どんな人もその厳しい人生の山や谷を超えた時こそ、
きっと芳香を放つマグノリアの花が咲いていると思います。
さて、話を童話戻しますと、
「マグノリアの木」ではとても不思議な対話が交わされます。
「あなたですか、
さっきから霧の中やらで
お歌いになった方は」
「ええ、私です。またあなたです。
なぜなら私というものもまた
あなたが感じているからです。」
「そうです、ありがとう、私です、またあなたです。
なぜなら私というものもまた
あなたの中にあるのですから。」
不思議な会話でしょ。
しかしこれはまさしく脳の世界そのものです。
脳というものはどういうものかを
分かりやすく説明しますと、
例えば、ここに一人の人の写真があります。
その写真をみての反応として
・Aさんは「寂しそうな人だなあ~」と思います。
同じ写真をみて
・Bさんは「おとなしそうな人だな~」と思います。
同様に
・Cさんは「ねくらな人だな~」と思います。
というように、
人間ひとり、ひとりは、
同じ写真をみても、感じることも思う事も全く違い、
それぞれの
●脳の世界観で、物事を●解釈していきます。
つまり此の世のありあらゆる事は、
自分の●その時の心(無意識にある心)を通して、
他者を見たり、物事を感じたりしているのに過ぎないのです。
だから、「私はあなたであり、あなたは私である」のです。
極論をいうと、
自分が感情に重きを置いている人は
寂しそう、という反応をします。
性格にシフトしている人はおとなしそうと思い、
ネアカとネクラという属性(表面的な俗性)に気が取られている人は
そういう風に反応するのです。
ありとあらゆることにその人の脳の世界観が反映されます。
例えば服のデザイナーだったら、
どんな服をきているか、サッとというところに目が行くように、です。
だから自分の心の在り様(存在)がどうであるかや、
何に関心を持っているかや、
どのようなことに●神経を使って生きているかは、
自分が他人や社会をどのように見ているかへ反映されるのであり、
実のところ
その客体に対して、
自分の思う事や感じることが
ほんとうにその通りであるかどうかは、わからないのです。
真実と、思い込んでいるにすぎないのです。
つまり
他者が私を見ている場合も、
その人がその人の心を反映して私を見ており、
それは、もしかしたら実際の私とは、別物かもしれないのです。
脳の世界とは、こういう風にすべて
●脳が思い込んだものを通して、
情報処理されていくのです。
逆に自分の脳世界にはないものに対しては
感じることも、判断することもできないってことです。
ここにも、それぞれの人間の限界もあります。
そしてちょっと困ったことに、
そういう自分の認識に、
自分(その人間)の欲求や、期待、望みなどを上乗せ(依存)してしまいます。
するとそれは過剰に膨張したり、装飾されたりして、
幻想化されてしまいます。
また現実そのものを見極めないで、幻想を追った結果
それが叶わないと不安に陥ったり、失望したしたりしますが、
それも大変身勝手なものなのです。
特に依存や甘えがある場合などは、それの幻想が酷くなります。
恋愛などがまさにそうですね。
つまり
初めから終わりまで、人間は自分の脳世界の現象を生きるのですね。
こういうことが理解されていくと、他者と争ったり、
或いは自分が思い込んで悩んだりすることが
いかに不毛で、独り相撲であるかが分かります。
さらに、自分を正義としたり、相手を不義とするのも、
本当はおかしいのです。
つまりすべての事は相対的にみなければならないのですが、
この<相対化>するというのが、なかなか難しいのですね。
多くの人は自分の思い込みこそ、正しいと思いこむのですから…苦笑!
※相対化とは、自分からみた視点と相手(他者)から見た視点の
両方から見ることです。
もうお分かりだと思いますが、
人間は、人間世界という合わせ鏡の中のをいきているのです。
この事はミハエル・エンデなども「鏡の中の鏡」という作品で書いています。
ミハエル・エンデのそれはちょっと難解なのですが。
実は宮沢賢治も「インドラの網」という童話をかいていますが、これも難解です。
次回、そのことを書いて、このシリーズを終わります。

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