◆ドキュメンタリー映画はなぜ、人間の不条理ばかりを追い、今の時代の危機に気づかないのか、なぜ、ドキュメンタリー映画には別の可能性(芸術性)があることに気づかないのか。

どういう訳か日本のドキュメンタリー映画は,

延々と不条理とヒューマンドラマばかりを追い続ける。

戦後何十年も不条理ばかりを堂々巡りして作られるドキュメンタリー映画。

そこに私の大いなる疑問がある。

不条理や社会問題を追う事を否定している訳ではない。

ドキュメンタリー映画を見たいとワクワクするかというと、それがないからだ。

そして反対に

ドキュメントとはもっと大きな可能性があるんじゃないか、と

私は思います。

例えば映像の幻想性だけで、詩のような歌のような。

或いは<能楽>の世界のように、

現実と過去と未来が入れ子のように語られるドキュメンタリーや

或いは美しい芸術作品のようなドキュメンタリーなどなど。

滑稽、奇想天外、不真面目などなど、

そういうドキュメンタリー映画があっていいじゃない!

余りに作りて側がドキュメンタリー映画とはヒューマンドラマや不条理という

固定観念の枠から抜けきれないのは、なぜだろう。

その点ユーチューブのほうがはるかに自由で感覚的で

面白さに溢れている。

不条理が起きるその根幹には、人間の存在の自我の問題があり、

それを心理分析した映画も、脳科学的に分析したドキュメンタリー映画も見たことがない。

※劇映画ではダルデンヌ兄弟など少数であるが、斬りこんでいる。

厳しく言うなら、自我の問題潜んでいるが、

そこまで斬りこんだドキュメンタリー映画も見たことがない。

そして、それよりもなによりも、何よりもです、

これからはそんな不条理などはもうすっ飛んでしまう時代が来る。

不条理であろうがなかろうが

個々の人間の存在やその事情がまるで大型台風にやられたように吹きとんで

AI社会に呑み込まれていく。

不条理ではないものに人間が滅ぼされる時代がもうそこにきている。

おそらく気づいている人はみんな気づいているとおもうけど、

人間社会は、大きく二極に分断されていく。

AIテクノロジーの恩恵をうける奴と、逆にその人間性まで剥ぎ取られて、

貧困や格差どころか、

人間が、人工知能や機械の奴隷化する時代です。

もしかしたらそれは、コロナの収束を機に一気進んでいくかもしれない。

わかってるのかな~!

私は、それが見えてしょうがない。だから、

「どこかに美しい村はないか」をつくった。しかし

これまでのようなドキュメンタリー映画にならない、

新しい形の「ドキュメンタリー映画」としてつくりました。

だから、この映画を見た人は深刻にはならない。

※ということを看破できる映画人がどれだけいるのかな~。

映画「どこかに美しい村はないか」は、

本当は難解な映画なのです。

凡庸では見えない、思いもよらない映画である。

映画人は何をしてる?

一つの示唆として深い深い考察の元に作ったのだけれど、

あと何十年かしたら、それが分かると思うが、

その時はもうどうなっているのか。

しかし私は人間の根源的幸福を願い、

それは何であるかをこの映画に残した。

人間が壊れていく時代がくる、しかしそこからまた、

立ち上がってほしいと願い、祈り作りました。

ただ、それを分かる人間がいないのは、

今は仕方がないと思っている。

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この記事を書いた人

作家。映画プロデューサー
書籍
「原色の女: もうひとつの『智恵子抄』」
「拝啓 宮澤賢治さま: 不安の中のあなたへ」
映画
「どこかに美しい村はないか~幻想の村遠野・児玉房子ガラス絵の世界より~」

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