◆私はドキュメンタリー映画の従来のセオリーとはまったく逆の発想から、ドキュメンタリー映画を作りました。

ドキュメンタリー映画はなぜ、人間の不条理ばかりを追い、
今の時代の危機に気づかないのか、
なぜ、ドキュメンタリー映画には別の可能性(芸術性)があることに
気づかないのか。

        その2

おそらくほとんどのドキュメンタリー映画が、

社会や観客への問題を提起する

つまり、あなたはこの映画をみて、どう思いますか?どう感じますか?

という風にである。

しかし

私はその反対から作った。

問題提起ではなく、つまり

●答えをつくったのである。

なぜか?

つまり、そこにこそ、ドキュメンタリー映像の真価があると

考えたからだ。

これからの時代はAIテクノロジー社会へと一気に突き進むに違いない。

それが人間の滅びにむかっているとしても、一気に進むだろう。

その時、人間は、自然から生まれた生身の生態(動物)である自分と

ますます人工化していく自分との間でねじれ、恐ろしくもがき、苦しむと思う。

利便性と生産性と欲の代償として、人間はどんどん大切なものを失っていく。

そういう時今のドキュメンタリー映画なら、きっとその問題や苦しさを取り上げるだろう。

しかし私はそうではなく●答えを映画として差し出したのです。

その時その社会をどのように解決していくかの<答え>として

映画「どこかに美しい村はないか」がある。

しかもそれは、つくりものではない

ほんもの、実写として(ドキュメンタリー映画として)

人間の真実をして、あるのである。

だからこそ、その、ほんものが、消えないうちに能勢監督に撮ってもらい

映画にしたのですよ。

押し寄せてくるAIテクノロジー社会の中で、

押しつぶされそうになった時こそ。

この映画を見てほしい。

ここに答えがあるよ!って。

こんなに人間がイキイキと生きた時があったのだよ。

こんなに美しい自然と一緒に人間が働いていたんだよ。

とね。

しかもそれは、実写として,リアリティーをもってさ!

私はこれこそが、実写を撮る、という、

ドキュメンタリー映画の使命であり、本領であると思う。

これからのAIテクノロジー社会が進む一方では

人間の自然性や社会の自然性が奪われることに

断固として抗う人々がいる。

その一つに自然栽培という事がある。

この人々のアナログ性こそが、一つの希望としてある。

ここを足場に、人間が人間らしく生きる社会を

再構築してもらえたら嬉しい。

そのささやかな一端をになえたら、嬉しゅうございます。

というわけで、この映画を作りました。

私が死んで後、そういう時代が来た時こそ上映してね、と

能勢監督にはお願いしてある。

皆さんも、よろしくお願いいたします。

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この記事を書いた人

作家。映画プロデューサー
書籍
「原色の女: もうひとつの『智恵子抄』」
「拝啓 宮澤賢治さま: 不安の中のあなたへ」
映画
「どこかに美しい村はないか~幻想の村遠野・児玉房子ガラス絵の世界より~」

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