おそらく、こんなことを考え、言う人は、あまりいないと思うが、
ただ「知価革命」を書いた堺屋太一氏も同じようなことを
述べられていたので、やはり、そうかな~と思う。
それは日本人の国家、行政への依存心の高さです。
それは決して良いことではない、と私は考えます。
古い話で恐縮ですが、
私が大学生の頃に、都知事選があり、
政治学者の美濃部亮吉氏が立候補し、当選しました。
その時、美濃部氏が掲げたのが<福祉>という政策でした。
この時初めて日本人は<福祉>という言葉を知ったのではないかと思う。
(間違っていたらごめんなさい。)
私は東京都民でもないし、選挙には関係ないのですが、
この福祉という行政サービス、いろんなことを無料化する、という政策に
すごい違和感を覚えました。
なぜなら、それまでの日本人には、
国家行政には頼らない、自立心があったように思うからです。
それがこの<福祉>という甘い言葉でなし崩されて、
いつの間にか行政への依存がぶりかえすのではないか、という
危機感を覚えました。
私が生まれたのは戦後2年目です。
当時は戦争で国家というものが崩壊し、
その混乱の中を人々がもう自力で生きていた時代です。
そんな中で成長し、青春を迎えていた私の意識は、
日本は、国家のために戦争をし、多くの国民を犠牲にした。
しかしそういう国家が崩壊した時、人々は
貧しいけれど、食べていくためには国なんかあてにせず、
自力で生き延びようとする逞しさが生まれたと。
すくなくとも、そこには、国民ひとりひとりの
自立して生きる気概のようなものがあったと私は
感じていたからです。
そしてこの美濃部氏の福祉政策は、
戦後22年の間、
せっかく人々が国家から自立して生きているのに、
また国や行政に微妙に依存させるということに
戻るのではないか、という懸念を持ちました。
これはもう、はっきり覚えています。当時20歳の私です。
それから、もう何十年もたちましたが、
今ではもう人々の頭の中には国家とか行政は
国民への福祉やサービスをするもんだ、という固定観念が浸透していったと思います。
たしかに人々は懸命に働いて税金を納めているのですから、
当然といえば当然のことです。
ただ、今でも私は
<国>は国民のためにいろいろ奉仕、
サービスしてくるのが当然という意識や依存は
あやういよ、と思います。
むしろ国家はうっかりすると、ぼやぼやしていると、いつの間にか国民を
利用してしまうよ、と。
堺屋太一氏は「知価革命」のなかで、
政府依存型の心理と体制とが、自由な発想と新しい技術の導入を妨げるとも、
書いておられる。
これはとても大切なことで、政府に依存するのではなく、
国民一人一人が自立し、そのの自力を発揮することの方が
とても大事だと私は思います。
今回見ごとに国は馬脚を現したと思います。
オリンピックのためには、国民を犠牲にするとまでは言いませんが、
後回しにする、という強引な姿勢です。
しかし、だからこそ、もう政府、行政のいいなりにはならない、という人々も
出てきました。
先日のテレビで、豊洲市場で魚の中おろしをしていた人々が、
コロナで廃業まで追い込まれながらも、
車に魚を積んで、町の中で引き売りを始めたそうです。
こういうことがとても大事だと思います。
日本人はどうしても、集団依存で生きてしまいます。
でも、本当はひとりひとりの中には、自力のエネルギーがあり、
政府、行政がどうであれ、それを乗り越えていく逞しい国民になってほしいと
私は願います。
他に依存せず、
●自力を発揮して、自力で人生を切り開いていく、ということこそを
気概にもって、日本の若者たちも、人々も頑張ってほしいです。

コメント