◆人間はどこへ行くのか。最終回「どこかに美しい村はないか」

人間はどこへ行くのだろう。

人類の歴史は広大な宇宙の歴史のほんの一片であり、

私達の人生はほんの一瞬の点の輝きかもしれない。

しかしそれでも人間は進化の文明を作り文化を作って、懸命に命を繋いできた。

文明は、人力からから始まり、地力、風力、水力の自然エネルギー、

そして蒸気機関、内燃機関へと進化し、電気から電子回路となり、

コンピューターがうまれ、コンピューターは、あらゆる情報を処理する情報マシンへと進化し、

今は世界中がインターネットで繋がっている。

言語と文字を獲得した人間の文化は原始的な呪詛、

祭礼から、宗教や音楽や絵画芸術を生み出しそれは様々に人間社会を謝肉祭のように彩り、

高邁な自由と平等の理念が生まれる中、世界の多くの人々は平和なる世界を望んでいる。

しかし、問題は現在の人間の姿が進化の最終形であるかどうかは分からないことである。

この高度に文明がテクノロジー化した社会はどこへ行くのか。

果たしてそれは、人類の幸福と平和の理想社会となりえるのか。

一方では、人間はいまだに争い、対立する。

全体主義の社会では言論の自由がないばかりか高度テクノロジーによる、世界征服の武器さえ作られている。

これまでのように人が武器を操作するのではなく

コンピューターを搭載したドローンが自動的に人間を殺戮してゆく。

さらに第6章で書いたヴェルナツキーが想定した『人工光合成技術』による「人工光合成の食品」は

もう試食段階まで開発されている。

人間ははたして『独立栄養生物』に自分を作り替えるのか。

「人工光合成の食品」はほんとうに美味しい食べ物なのか。

更に生活の隅々まで入りこんでいる環境ホルモンの汚染をどうするか。

人間は多くを望み過ぎているのかもしれない。

もっとささやかに、素朴に節制ある生き方をしないと、人間も地球も続かないかもしれない。

それは遠い未来なのか、それとも、すぐ近くまで来ている未来なのか。

いったい人間はどこへ行くのか、どこまでゆくのか。

ある種の絶望に陥りながらも、それでも心は希望を探して駆け巡る。

人間の未来を思いながらも、もう老いた私には時間がない。その出口と希望を探していたその時、

遠野に行き出遭ったのが、児玉房子さんのガラス絵の世界でした。

ガラス絵には昭和の終わりから平成へかけての人々の働く姿や田園が描かれていました。

林檎畑は白い花が咲き乱れ、田んぼで働く人々や稲の収穫や権現様のお祭りなどなど、

懐かしいその風景も光景も、どこか穏やかで、のどかで、人々は自然と共に暮らしている。

そしてそれを見守る児玉房子さんのまなざしは優しい。

児玉房子さんの書かれた本には、私が青春頃から読み、愛した茨木のり子さんの詩がありました。

『 どこかに美しい人と人との力はないか』

あゝ、もしかしたら、私にできることがありそうだ!!

私は心を躍らせて、

是非このガラス絵と茨木さんの詩と遠野の風景をリンクして映画にして残しておきたいと思いました。

思うというより、思いつめました。

時代が進んだ時、それがどんな時代になるか分からないけど、映画にしておけば、それは架空の世界でも、

幻想でもないドキュメンタリー映画の実像としてのリアリティーをもってみんなが見ること、知ることができる。

それは、情報化と高度テクノロジー社会になる前の時代、

自然と人間とが共に生き、ともに働く、そのバランスが取れ得ていた時代。

もしかしたら昭和から平成に架けてのこの時代こそが人間にとって、

もっとも善き時代だったかもしれない。

どんな時代が来るのかわからないが、未来を担う人々に、こんな時代があったのだと伝えたい。

さらに嬉しかったのは、佐々木悦雄さんと菊池陽佑、裕美夫妻との出会いです。

佐々木悦雄さんは全く自然のままの無肥料、無農薬で林檎を作り、

菊池陽佑、裕美夫妻も全く無肥料無農薬の稲作をしています。

化学工業物質が溢れる今の時代に、そういう自然のままの作物ができうる、ということは驚きでした。

そしてその田植えや田の草取りには、バッチャを先頭に昔通りに手作業する人々がいる。

みんな朗らかでたくましい。

その田植えや草取りの技術が消える前にカメラで撮れるという喜び!

そして日本はまさに稲の文化の国であり、

主食のお米がまったく自然のままに栽培されるという大きな希望も生まれました。

そして岩手県田野畑村では、自然のままに放牧されている牛たちもいるという。

一度だけそのミルクを飲みましたが、もうアイスクリームのようにおいしゅうございました。

これからどうなるか分からない未来のために、

その未来を生きる人々への贈り物として、決して深刻にならず、

不安なんかふきとばす人間の賛歌として、喜びと感謝をもって、ガラス絵、茨木のり子さんの詩、

そして遠野の風景や権現さまのお祭りや、お盆の灯籠流しや稲刈りや、空一面に広がる銀河を!

友人の能勢広監督が美しい映像の映画にしてくれました。

Rkiraさんが素敵な音楽をつけてくれました。

人間は今、目先のことばかりではなく、壮大な宇宙の物理、人間の歴史や文化や文明を、

大きな視点でパノラマにように眺め、考えなければならない。

私たちは、これからどこへ行くのか。

しかし、どんな困難なことになってもそれを乗り越え、

人間にとっての真の幸せを探してもらいたいと。

以上が私が映画「どこかに美しい村はないか」~幻想の村遠野・児玉房子ガラス絵の世界より~を

映画としてプロデュースした動機です。長い文を読んで下さり、本当にありがとうございました.

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この記事を書いた人

作家。映画プロデューサー
書籍
「原色の女: もうひとつの『智恵子抄』」
「拝啓 宮澤賢治さま: 不安の中のあなたへ」
映画
「どこかに美しい村はないか~幻想の村遠野・児玉房子ガラス絵の世界より~」

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