河東碧梧桐のことを書いたことに端んを発し、やっぱり私は正岡子規が好きなんだと思う。
なぜだか分からないが、漱石と同じようにずっと私の心には子規が住み続けている。
昨日碧梧桐が書いた「子規を語る」を読み返してみたら、いよいよ子規の大きさがわかる。
そして子規の俳句世界は、
シュールな感性の豊穣さだけではなく、
子規の思想性と人間性が大きく大きく句を包み込んでいる。
そこには,自由であり、自在であり、ユーモアやちゃめっ気があり、
そして,思想や理念としての正統性がある。
それは、
維新から明治へと,
つまり古い時代から新しい時代へと移る中、
それまでの陰鬱な雲に包まれていた時代の空に、
ぽっかりと碧い空が開いて来たように、
子規が伸びやかに俳句を詠んでいく。
その周囲には、碧梧桐や高浜虚子をはじめ、伊藤左千夫や長塚節など、
たくさんの青年達が子規に憧れ,取り囲む。
碧梧桐はこう書いている。
「子規の没後年と共に平凡化して行く、今の碌碌たる自分を顧みて、
当時子規を驚かした時代が、
自分の一生の中、
最も華やかで純粋で無邪気な自我な美しさに充ちていたとしか思えない」
司馬遼太郎さんが子規のことを書いてその題を「坂の上の雲」としたのも、さもあらんと思う。
その真っ直ぐに上をみて、ぽっかり空いた空に浮かぶ一朶の雲へと坂を登ってゆく子規。
やっぱり私もそうでありたい。
この歳でもそうでありたいと、
思うのである。
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