大江健三郎と江藤淳が漱石と子規の事を話しているのですが、
大江さんが,子規との関係において、
実は私も密かに虚子はかなり俗っぽく碧梧桐の方が感性が際立っていると思っていたので、
大江さんのこの言葉を読んでスッと溜飲を下げる。
やっぱ、そうだろ、ソウダロ!(笑)
〇
なぜ碧梧桐かというと、
碧梧桐の中には殺気で磨きあげたようなシュールな感覚と感性があるからです。
シュールとは、合理性では説明し得ない、つまり合理性を超越してある感性の世界であり、
言葉と言葉,言葉と空間、言葉と時間などなど、
言葉が感覚によって超えられてしまう瞬間。
だから読み手の感覚がかなり研ぎ澄まされていないと、理解されない。
しかし理解した時はえも知れない知性の快感や喜びがある。
私が思うには、
おそらく<存在>というのは、そういうものではないか、と思うのである。
<存在>とは、
合理性では説明しきれない感覚と感性の不可解さの中にある。
そういうものを漱石も子規もわかっていた気がする。
おそらく芥川にもみえていたのではないか。
となると、
虚子はいかにも凡庸な気がする。
その分世渡りにはたけている。
おそらく子規がもっと生きて入れば
懐に短刀を忍ばせた鋭いジャーナリストとして腕を振るったかもしれないし、碧梧桐を理解したと思います。
碧梧桐の句には醒めた鋭気があり、それは世の中的には扱いが難しいかったかもしれませんね。
私は断然碧梧桐の方が好きですから
かなりの少数派であろうと思っていたところですが。
大江氏が虚子より、碧梧桐だと言っておられるのを読み、
少し嬉しくなりました。
まあ、そう言うところです。
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