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関ヶ原 5 家康の勝因は、儒教の導入と愚直で律義な三河家臣団に愛されたこと。

始めにお断りしておきますが、私は儒教の推進者でもファンでもありません…苦笑!

ただ家康が戦国社会を乗り越える方策として、

儒教(儒学)という客観的思想世界を用いた事に、ほほーッと感心しているのです。

では本題に入ります。

      ◯

さて、家康がどういう人物であったかについては、

現代人の私達が想像もつかない戦国という厳しい存在条件の中を、

彼は生きているわけですから

意識、価値観だけではなく、感覚そのもの次元が違います。

分析するのもなかなか難しいです。

私としわかる事は、

シリーズ3回で書いたように、

新しい統治のベースに儒教(儒学)教育という、

知性を磨く学問奨励したことは素晴らしく、

そのレベルで物事を考えられる明晰さを持っていた人だと思います。

つまり、権力を奪取するだけでは統治できないことがわかっていた。

人民の意識や文化を変えていくには、知的精神ソフトが必要である事をわかっていたのだと思います。

ただこの事に対する皆さんの反応が3ではあまりにも薄かったので,私としては少し残念であり、

多分書き方が不足だったと思いますので、

ちょっと付け足して説明します。

例えば中国秦の始皇帝が中国を統一しましたが,すぐ滅び、そのあとを今度は漢の劉邦がその後のを成し遂げていきます。

劉邦は,無学な為にというより、

無頼派で勉強嫌いの為に、儒家が大嫌いでした。

ところがいざ天下を取ってみると、今度はアナーキー化した世の中の荒れように手がつけられなくなります。

まるで戦国の世のように礼節も礼儀もなく行儀の悪い臣下達がいつ謀叛を起こすかしれません。

それでやっと劉邦は悟るのです。

つまり統治していくには圧倒的な権威に対する人々の尊敬と、

人間を導く理念”(言葉)が必要であると。

思い出してください。

確かに秀吉は天下をとりましたが、

しかしその方法は、

相手(武将)達と自分の距離を一気に縮めて親密になり、

人を垂らしていく,というやり方です。

家来たちにすれば、距離が近いだけに親みがありますが、ナメられます。

家康を臣下にする為にも,彼はひと芝居うちましたね。

だから、確かに天下はとってもその裏では、あの猿が、と言われっぱなしです。

その結果秀吉は、家臣を信用できず、

自分の死後秀頼はひっくり返されると怯え、家康に秀頼を頼むと懇願したのです。

つまり秀吉には残念ながら権力や地位はあっても、品格ある権威はなかったということでしょう。

さて劉邦はどうしたかというと、

それまで小馬鹿にしていた儒教,儒者達の価値に気づくのです。

仁、義、礼、智、信、を思想化した儒学の価値が、やっとみえた。

そして、

儒教の力を借りて臣下の意識変革をやっていきます。

その為には彼自身が高い教養と品格を持たねばなりませんね。

儒教(儒学)という優れた知性と理念のビジョンを持ち,その実践において初めて、

リーダーとしての尊厳が生まれます。

臣下と民からの尊敬があってそこに

権威,カリスマ性がうまれる。

という事を、やっと知るのです。

(こういう事を分かっていないリーダーが日本にはたくさんいます。)

家康が果たして劉邦のこの経緯を知っていたかどうかわかりませんが、

家康が,儒教を用いたのは、

極めて賢いやり方です。

だからこそ私は、この儒教導入こそは、信長と秀吉の統治とは、

決定的な違いだと書きました。

家康という人は、感情に溺れないかなりのリアリストではなかったか、と思います。

リアリストだから現実に欠落しているものがよく見えた。

多分物事を俯瞰しながら、

設計図を書くように統治システムを作成し、それをどのように配置するかも設計し、

最後に、その社会に息吹を与える為に、

儒教理念を吹き込んだのではないか、と私は考えます。

彼は、単なる読書家ではなく、医学書や薬学の本も読み、自分でも調剤していたようですから、

恐らく理系の工学系の頭脳だったのではないかと思います。 

短気は短気だったらしいですが感情は案外淡白であり、

あまり他人の中には深入りしない、

むしろ覚めていたのではないでしょうか。

逆にいうと、

他者と自分の距離をしっかりして測り、

どんな他者(家来)とも 

等間隔に距離を持つ事ができた。

そのことは翻って、

家臣達の家康に対する信頼を産み、

家臣団を安心させ、

持続的に家臣に守られたのではないかと、思います。

つまり信長のように気まぐれで豹変したり,秀吉のようなあざとさがない。

その家康を大きく支えたのが、

本田忠勝はじめ三河の⭕️伝統的武士軍団です。

策士本多正信、そして家康の懐刀として手足となって働く井伊直政、

ちょっと話がそれますが、

この井伊直政こそ、大河「女城主直虎」の時菅田将暉君が演じたあの

賢い「万千代」くんですね…笑。

そして伏見城で戦死した鳥居元忠のように、

家康と共に苦労を重ねた、

泥臭く、しかし素朴で律儀者の三河の武士達がいつも家康を取り囲んでいました。

最後に、

家康は自分が天下を取った後,世の中が戦国へと振り戻らない為に、

かなり厳しい統治システムを設計したのではないかと思います。

だから内部或いは外部からの反発や崩壊がもっと早く起きても当然かと思いますが、にもかかわらず、

265年も持ち堪えてしまいました。凄い。

いったい家康は、どのように設計したのでしょうか。

ひとつ確かなことは、

265年の間、儒学と儒学に反発する反儒学が,それぞれ応酬しながら、

そこからや優れた朱子学者さらに陽明学者や蘭学者がたくさん輩出されたことです。

それらの議論と検証のたびに、

江戸社会が修正されたのだろうか?

現代の日本はどこか戦国時代と似ているような気がします。

しかしこの日本は、自らを修正する気力があるだろうか。

以上が、

インフルエンザの熱でからだが軋む中(笑)

司馬遼太郎著「関ヶ原」を読んで考えたことです。

        終わり。

今日からいつも通りに働きます。

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この記事を書いた人

作家。映画プロデューサー
書籍
「原色の女: もうひとつの『智恵子抄』」
「拝啓 宮澤賢治さま: 不安の中のあなたへ」
映画
「どこかに美しい村はないか~幻想の村遠野・児玉房子ガラス絵の世界より~」

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