書き手が登場人物達を超越できていない、というのは作家にとっては致命傷ですが、
面白いことに「鼻」と「芋粥」については、それができているのです。
これは芥川の創作作品ではなく、
「今昔物語」という原作があるからです。
その原作次元でもう主人公は客体化されており、
芥川がやったのは、その原作のオマージュというか、バリエーションだからです。
今風に言ったら、主人公のキャラが明確に立っており、
それを眺めている芥川がいるということです。
自分の書く小説と自分の間に距離があり、その理性ゾーンがある。
だから登場人物達を超越した位置から眺めることが出来るのです。
芥川の場合、彼自身の自他の分離がまだ弱いという事でしょうねぇー。
そして、
この二つの作品から私にみえてきたのは、
主人公二人に共通する姿です。
それはもしかしたらそれは芥川が潜在的に願っている、
芥川自身の理想?の姿ではないか、という気がします。
ずいぶん屈折していますが、
そういう厭世観を持っていたのではないかと思いました。
「鼻」の主人公禅智内供も「芋粥」の主人公五位も、
その醜い鼻や風采の上がらない姿が人々の笑いや嘲りをかっている。
そして彼らは一時的には、その外見の修正を試みたり、
又満たされない欲望が、
果たされたかのようになるがしかし、
それらが果たされてしまうと逆に、
彼らの中に、
冴えないもとの自分の姿に対する、郷愁がおきる。
つまり、たとえ他人に嘲りを受けようが笑われようが、
醜い鼻の自分、風采上がらない自分こそが、
いかにも自分らしい自分の「座」であると確信するのです。
小島政二郎氏によると、
芥川自身はまつ毛が長く澄んだ聡明な顔をしていたそうです。
しかしどこか気が弱く優しい。
もしかしたら自分の我をとおすことが出来ず、
養子家や伯母の前では、いつも折れた自分を生きていたかもしれません。
だからむしろ他者に相手にされない
顧みられないことに
安堵したい幻想を持っていたのではないか、と思います。
他人がどうであれ、社会的な評価や地位がどうであれ、
最も低く、
誰からも顧みられないその位置こそに、
芥川は憧れ、
そここそが自分が安心して生きれる位置だと欲したのではないかと、私は思います。
養子家での重圧や叔母の束縛からも解放されたかったと思いますが、
それだけではなく、
余りにも明晰な頭脳の為に、
社会の矛盾や人間の偽善や愚かさが
見えすぎてしまう。
その一方で作家としての自分に対する過剰な審判、つまり、
尊敬する志賀直哉のように書けない焦りもあり、
度重なる不眠症も、
神経症的に彼を追い詰めていったと
思います。
更には、彼の頭脳のレベルを共有できる人が殆どいなかった事。
敢えて言えばもし、夏目漱石が生きていれば、
おそらく漱石は芥川の明晰な世界を理解したと思います。
芥川の苦しみの根は、漱石の苦しみの根にあい通じるものがあるからです。
芥川は36歳で自らを打ち切りますが、
本当にまだまだ若い。
しかし彼の遺作の「歯車」を読むとそこには、最後に独白する芥川がいます。
真に迫るその独白に、
彼がどれだけ苦しかったかと
思います。
つづく。

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