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なぜA Iテック技術は本質的ではないのか

十数年前A Iが出現し始めた時、これは人間の脳が劣化する危機だと直感した。

そのことは、当時まだ科学として実証されてはいなかったが、

すでに私は人間の経験値がどんどん奪われる事が、脳知能の劣化につながると考えていた。

当時は誰もそんな事をいう人間はいなく、やっと今脳科学や遺伝学が発達してきてそれが明らかになってきたが。

しかし当時の私は、自分の頭にヒラメイタそれを、

そのまま正しいと確信し、

この危機を警鐘する為にどうしても、身銭を切っても映画「どこかに美しい村はないか」を、作らずにはいられなかった。

つまりこの映画は、感傷的に、田舎はいいわね〜とか、癒される、とか、なんていう次元で撮ったものではない。

おそらく人間は必ず行きすぎたテクノロジーに行き詰まり、その反動が来ると予想した。

その反動は、

・人間は自然を離れては生きていけないこと。

・働くことは、人間の創造性の源泉であること=作ることは生きること。

・金融経済の資本主義は必ず崩壊する、ということ。

・その時、人間はA Iではなく、人間自身の才能と、そして、

・搾取されない労働こそが、

人間の最も本質的な姿なのだと、

気づくだろうと考えた。

私の予想は見事に当たりました。

確かにA Iは出現したが、それは思いがけないところから、その弱点が表されてきた。

それは、

A I技術の先頭を切ってきたアメリカと中国が、この先、

最も破綻する国かもしれないという現実です。

おそらく大多数の皆さんは、そんなことはあり得ないと、考えておられるだろうが。

つまり、可視的な、或いは、言語化的、また数値化的世界を過信した国は、破綻してゆく。

なぜなら、可視的、或いは言語的世界は、

あくまでも、脳の仮の、仮想の現実でしかないからだ。

人間の現実は、そんなもの、つまり可視的、言語的世界の数値やデータを、

超越したところにあるからです。

ちょっとばかりA Iを先進的に開発したからって、それがなんだというんだ、と私は思うのです。

反対に、

自然というものを甘く見ちゃーいけない。

自然は、人間のそのちっぽけなデータと計算より、

遥かに人間の前に聳え立っている。

そして脳の持つ可能性は、A Iが弾き出すものより、遥かに広大で深い。

その深さがすごい。

なぜ人間の脳の方がすごいのか?

それは、人間はその自然の一部としてあり、

人間の脳は命と、連動していることにある。

この命=身体と脳の働きが、いかに完結し、完璧であることか。

いくら人造人間を作っても、人間の生命の完璧さと、それが偶有するさまざまな偶有性を、

A I、人造人間は、持つことは、できない。

そういうことをテクノロジー信仰者は、わからないのである。

こういう、いわばよく考えれば当たり前のことを、

頭でっかちになり、脳が観念と数字で、物化し、さらに、

尊大と、傲慢に侵されたテクノロジー信仰の人間たちには、

わからないのである。

特にアメリカのテクノロジー信仰をしている、ピーター・ティールもイーロンマスクやそのほかのテクノロジー信者達、

人民を大切にせず、いまだ路上につばを吐く、自己の社会文化の低さに気づかず、

そのコンプレックスがあまりに酷いために、

その裏返しに見栄をはり、

アメリカにタイマン張って、

テクノロジーの最先端を走ろうとする中国の人間などには、

わかり得ないのである。

私は考えている。

つまり、私達の頭の中は、そして身体も、

目には見えないものも、耳には聞こえてないものも、皮膚感覚よりもっと微細に世界を、キャッチしながら、

命が働いている、と私は考える。

そこには、自然の一部であり、大いなる自然の細部にしかない人間でありながら、

完璧に設計された、私達がいるのだと。

再度、

「作ることは,生きること」

このままテクノロジー社会が進んだとしても、

やがてその先に

アナログ世界への回帰が必要になると、

私は考えている。

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この記事を書いた人

作家。映画プロデューサー
書籍
「原色の女: もうひとつの『智恵子抄』」
「拝啓 宮澤賢治さま: 不安の中のあなたへ」
映画
「どこかに美しい村はないか~幻想の村遠野・児玉房子ガラス絵の世界より~」

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