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漱石メモ8「こころ」パートII

高校生の時、夏休み課題図書として漱石の「こころ」をよみました。

60年近く昔です。

若き青春の頃ですから勿論、感情的に、且つ感傷的に読んだと思います。

当時の私の感想は、

先生は策を弄して親友を出し抜き、その結果親友Kが自殺したという事への、

良心の呵責に耐えきれず、自殺したと思いました。

確かに筋はその通りです。

ただ今回改めてよくよく読むと、

この小説で漱石は、

先生に対する倫理的責任追求をしているのではない事が分かります。

というのは、漱石のペンが冴え踊っているのは、

親友Kからお嬢さんが好きである事を打ち明けられた先生が、

自分もお嬢さんの事を思っていたが故に、どうしたらKが、お嬢さんに告白するのを防げられるかと思い詰め、策を弄する場面です。

この箇所だけが迫真的にペンが踊っています。

僧侶の息子であり、精進という言葉が大好きで、いつも高尚な精神世界を目指しているKに対して先生は

「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」と言い放ち、

一発で彼の心を打ち砕き、突き刺さしてしまいます。

そしてその裏では、

お嬢さんを嫁に欲しいと彼女の母親に先手をうちます。

この小説はこの場面がクライマックスであり、

その他の場面の語り口は理知的であり、決して感情的ではありません。

この小説の中には、

いわゆる自然主義文学のように、 

自己懺悔的な感情が激したものが見られません。

漱石が淡々と書いているのだと思います。

おそらく漱石が一番比重を置きたかったのは、

友達を卑怯な手で裏切った人間の倫理の自責を追及することより、

どうしょうもなく、

エゴ的なものに捕まってしまう人間の弱さや愚かさではないかと思います。

それは、

解説の三好行雄さんが書いておられるように、

人間の心に潜む原罪のなせる技でもあり、それに捕まると、

脳は躊躇なく暗黒の恐ろしい影の

⭕️<物凄い閃き>を発して、

策を思いつき、ついには

その人格を乗っ取ってしまう、という事ではないでしょうか。

漱石はそういう、

人間の逃れようのない業を見つめていたのではないか、と思います。

その人格が乗っ取られてゆくのは、ほんとうにアッと言う瞬間であり、

乗っ取られてしまうと、理性を失い一直線にそのもの凄い悪の閃き中へと引っ張られてゆく。

それは特別な人間ではなく

誰もがそうであり、

人間とはそう言う危うさの中をいきていると、

漱石が言っている様に思います。

そこには、そういう危さの中で、

かろうじて自分を守り通してる生きている人々への、

漱石の優しい目と言うか、共感があります。

なぜ先生は、この小説の語り手である青年に、

自分の過去の一切を手紙にしたかは、

以下の先生の言葉の様に、

若い人に対する愛情があったからです。

「私は暗い人生の影を遠慮なく貴方の頭の上に投げかけてあげます。

しかし恐れてはいけません。

暗いものをじっと見つめて、その中から貴方の参考になるものをおつかみなさい。」

漱石そのものが、自分の神経症的世界や、拭い去る事ができない闇と格闘して生きていたと思います。

その生い立ちからしても、彼の闇が深いのは間違いないでしょう。

ただ、それでも漱石が他の文学者達と異なり、

自然主義文学や西洋的ロマンの恋愛小説に陥らなかったのは、

彼の文章には、

軟弱なナルシズムや自己感傷が一切見られないところからも

窺えます。

漱石はかなりの癇癪持ちで、神経症的ではありましたが、

その一方で、彼のなかには、

江戸的痛快な精神が一本通っていたからではないかと思います。

さてこれから道草を読みますが、

それと同時に漱石の女性観も書いてみたい気がします。

私は漱石の女性観もいいなぁと思いますので。

では、道草を!

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この記事を書いた人

作家。映画プロデューサー
書籍
「原色の女: もうひとつの『智恵子抄』」
「拝啓 宮澤賢治さま: 不安の中のあなたへ」
映画
「どこかに美しい村はないか~幻想の村遠野・児玉房子ガラス絵の世界より~」

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