MENU

田下メモ

芥川龍之介は絶えず自分の中におきてくる二重の人格に悩まされ続け、

自分の中に沸き起こるデモーニッシュな自分に悩まされ続けたのではないか、と思う。

それがうまく文学に昇華されず苦しんだように思う。

つまり彼の中で,二つの人格が正面衝突し軋みあい、だんだん逃げ場を失っていったように思うが。

彼の先生,漱石も人間の人格が複層的に起きてくるのを見つめていた。

しかし漱石の場合、

龍之介よりスケールの大きな第三の人格というか、

自らの中で葛藤するそれらを懐にいれて俯瞰して見渡す人格があった。

その漱石(先生)を失った。

つまり唯一の自分と同質のものを見ていた漱石を失ったことが若い龍之介の喪失として、おおきかったのではないか、と私は考える。

彼の中で相剋する二つの人格は,出口のないまま龍之介を底へ底へと引きずり込んでいったように私は思います。

私がもっと若くエネルギーがあったなら、その辺を調べ上げて書くのだが、

もう私も衰えた。

若くして命を断った龍之介の初々しいまでの純度に心がうごく。

これを書きながら,不思議なことに

「山月記」の中島敦を思い出した。

何故だろ?

ただ書きながら、

私の中でもゃ〜っとしたものが消えていった。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

作家。映画プロデューサー
書籍
「原色の女: もうひとつの『智恵子抄』」
「拝啓 宮澤賢治さま: 不安の中のあなたへ」
映画
「どこかに美しい村はないか~幻想の村遠野・児玉房子ガラス絵の世界より~」

コメント

コメントする

目次