なぜ人間は,宗教というものを考えだしたか。
その必然はどこにあるのか。
その宗教について、私が感動し、感銘をうけた二人から掘り起こしていきます。
ここでいう宗教は、伝統宗教のことです。
◯
ずっと以前ですが、吉本隆明氏が書かれた親鸞について、私がハッと気づいたことがありました。
もしかしたら親鸞は、極楽寺浄土を信じていなったかもしれない、という事です。
つまり親鸞は浄土
死後の世界を信じてはいかなかったのでは、と、
直感したのです。
吉本さんの本はややこしくわかりづらく,ただ、吉本さんも、
親鸞には、浄土を推進しながらも、それと矛盾する二面性があることを指摘していたように思います。
つまり、親鸞にとっては死後の世界は、
あってもなくてもよく、しかし
苦しい現世を
超越する、
または浄化する救済の方法として、
極楽浄土を思い、乗り越えなさい、
ということではなかったかと,
その時思ったのですが。
※これは、私がそう直感しただけですので、そのように認識をお願いします。
今、現世で苦しんでいる人々を具体的に救う光のイメージとして、
人間の煩悩や不安から逃れることができない人々が、
南無阿弥陀仏と唱えることで、解き放たれ、
澄み切った清浄なる次元の世界へと
入ることができる。
しかもそれは、
ただただ念仏を唱えるだけでいいよ!という、救済です。
親鸞ならではのスケールの大きさです。
欲や執着で浄土を信じさせるとか、教義を教えることではない、
ダイレクトに自我がカタルシスされる
極めてわかりやすい、直裁な民衆の救済であったかと思います。
実は親鸞の、ささやかな、ささやかな、
人間愛なのですね。
◯
私の人生も煩悩だらけで今も悩み続けています。
最初に救われたのは、新訳聖書,イエスの世界です。
自分の卑小さや脆弱さばかりが見えて、不安と迷いの中、
イエスからたくさんの
愛の言葉を貰いました。
その次に読み始めたのは、仏教の世界、最澄、空海、日蓮,法然
親鸞、道元、そして臨済宗も、禅も、それらに関する本を片っ端から読みました、何年もかけてね…苦笑!
みんな素晴らしかったです。
それと同時に分子生物学や宇宙物理学、そして脳科学の本も読み独学し、最終的に辿りついたのは、
神という存在も、仏教も、
人間が創り出した
想像と幻想世界であることがわかってきました。
しかし、神や仏はいない,ということがわかるにつれ、
私の自我は、荒涼とした砂漠のようになり、
現実すべてを、
私自身が背負わなければならない重苦しさで、時々心が折れそうになります。
自我の逃げ場がないのです。
その時反射的に、
神様助けてくださいという言葉がでてきました。
しんどくて疲れ果てる中、もう何もかもを放り出したい時、
神さま,私の力じゃー限界です。
どうぞ,私に力を貸してください、と、祈るのです。
そして分かってきました。
宗教とは何かが。
例えば親鸞自身は、浄土などない、と分かっていても、
人々には限界があり、人間なんてちっぽけなもんです。
だからこそ、超越的な存在、
個人の力や人間の意識の限界を超えて、
自分を託すことができる
大いなる存在が必要だと考えたのではないでしょうか。
私自身,神や仏様はいない、と充分分かっていてもなお、
神に祈ったり、
良寛の「 騰々任運」つまり、
運を天にまかせて、のほほん,のほほん,というふうに、
自分を放棄することで、
心が安らぎや気分が軽くなります。
伝統宗教というのは、
そう言う風に、人間を包み込んだり、癒したり,または、
神さまがみてるから、不正はしてはいけない、
神に誓って,嘘はつかないとか、
人間が存在し続ける為の示唆の鏡として,
最終的には
他者と共に生きるための知恵として、
人間が創造(想像)したのが宗教だと思います。
◯
エマニュエル・トッド氏によれば、
アメリカ社会も、西洋社会も、その衰退と退潮のもとには、
プロテスタンティズムの衰退があるとしています。
つまり、社会の根幹を為す、
共通の倫理や道徳の崩壊や、判断の基準になるものの喪失で、
人間の関係性が断絶されていき、
アイデンティティの崩壊に繋がっていく。
科学万能になればなるほど、
それは人間の深刻な課題になると、私は考えます。
さて、もう一人、
私に宗教についての深い示唆をくれた人がいます。
それが、ドストエフスキーです。
次回、そのことを書きます。

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