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未来への思索その6、ドストエフスキーが辿りついた世界!

ドストエフスキーも考え続けました。

彼が存在した時代は、キリスト教の衰退と神の否定や神の不在の議論が起きる一方では、

唯物論や唯物史観の社会主義が台頭してきました。

そんな中若きドストエフスキーは、フランスのユートピア社会主義者フーリエに共感し、サークル運動に参加し、ロシア聖教を徹底に批判して逮捕されます。

彼には最初銃殺刑がくだされますが

その後奇跡に恩赦が下り、シベリアへと流刑されます。

シベリアで彼が「死の家」と呼んだ牢獄暮らしの、想像を絶するような苛酷さの中で、

彼が精神の拠り所にしたのが「聖書」でした。

私が初めてドストエフスキー作品を読んだのは高校生の時で、

定番どおり「罪と罰」を読みましたが、殆どわかりませんでした…笑!

続けて、ひとつの教養みたいなつもりで「カラマーゾフの兄弟」を読みましたが、

こちらも難しくて殆ど理解できませんでした…笑!

唯一なんとなく共感できたのが「白夜」かなあー。

ただ、40代の後半にまた復活して「罪と罰」「カラマーゾフの兄弟」を読みましたが、今度は「罪と罰」には、かなり感動しました。

その時私は聖書を読み込んでいましたから…。

「カラマーゾフの兄弟」の方は、今ひとつ次兄イワンのことなどが、スッキリしなかったのですが、

大いなる好奇心で、その後彼の本を次次と読んでいきました。

「白痴」「悪霊」「未成年」「やさしい女」を読みました。

「白痴」は最後には主人公が自己崩壊してしまい、私は訳がわからなくなり、

「悪霊」に至っては、

身体がゾッとして怖かったのですが、頑張って読み通しました。

そしていよいよ60代になって、

三度目の「カラマーゾフの兄弟」を読み終えた時、深い感動が起き、

唯一私の目指すところを探り当てた気がしました。

やっと私自身の隅々までが満たされる本に出会えた充実感がありました。

人間の欲望とエゴ,狂気、驕慢、虚無、更に無意識の中の動物的本能を、

ドストエフスキーのペンが白日の元に晒し描いていきます。

しかし、それらの狂える人々に対するドストエフスキーの目は決して絶望ではない。

      ◯

さて、今日の本題に入りましょう。

なぜドストエフスキーが流刑地シベリアで再び聖書を読み始めたかと言うと、

シベリア護送の途中で、 

帝政ロシアの農奴制の廃止や、

立憲制の実現を要求して反乱を起こした12月党というのがあります。

その党員で、刑に服役中の党員の妻達から慰問を受け、

そこで聖書を贈られたのです。 

そして受刑中に許された読み物は、聖書だけだったのです。

私の勝手な推測ですが、彼がこの贈られた聖書を、死の寸前まで大切に保存したことを考えると、

この妻達との出会いが、

何かをドストエフスキーに与えたのではないか、と思うのですが。

ドストエフスキーの作品を読むと彼が,

神の不在のもとに勃興してきた唯物論や社会主義や、帝政ロシアへ押し寄せる革命の波の中で、

明らかに迷い、何が正しいのかを

逡巡していることが分かります。

おそらくドストエフスキーは、作品を描きながらに神とは何か, 

民衆とは何か,革命とは何か、

新しいイズムとは何かを,

最終的には、人間とは何かを。

自分に問い続けたと思います。

そこには、

ユートピア的社会主義にかぶれた若きドストエフスキーが、処刑を免れたとはいえ、

それは死と向き合わなけばならない

大きな挫折があったと思います。

その彼が、極寒のシベリア生活で何を考えたか。

4年の流刑地生活から帰還して、

ドストエフスキーは何を見たのか。

おそらくそれは彼の作品の中の登場人物として表現されている、

ある種救い難い自我の狂気とエゴにまみれて生きるしかない人間達であろうと、私はおもいます。

そんな中で一般的には、

ドストエフスキーはだんだん、キリスト教へと回帰したと見られています。

しかし私はちょっと違う見方をしています。

おそらくシベリア護送の途中で、

あの12月党の流刑者達を追って流刑地までついて行った妻達との出会いの中で、

何かがあったのではないかと、私は推測するのです。

それまでの理想を掲げて、闘う男たちとは違う、つまり、

イズムや思想を振りかざす男達とは違う次元で、生きている女達。

なんといったらいいのか、   

もっとギリギリのところで、けなげな温かい人間らしい母性で、極寒の地で懸命に耐え忍び、

夫や息子を信じ待ち続ける女達の中にある、素朴な信仰とでもいいますか、

そういう聖書の世界に触れたのではないか、と思うのです。

「罪と罰」にでてくるソーニャのモデルは、彼女達ではないか、と思います。

ソーニャは家族の為に身を売る売春婦です。でも、聖女のように綺麗な心をもっています。

それは社会の隅でひそやかに生きる、

小さな小さな民衆達の姿であり、

その彼女達が、心の拠り所とするイエス・キリストの「聖書」の世界を、

ドストエフスキーは改めて読み返したのかもしれません。

その証拠にといいますか、

彼の作品にでてくる女性達は逸品です。

なんとも個性的で、躍動的なのです。

長くなりましたが、最後に、私が最も大切にしているエピソードを書きます。

「カラマーゾフの兄弟」の中では、修道士の末弟アリョーシャの、師である聖僧侶ゾシマの死が描かれています。

民衆からの信頼厚い聖僧ゾシマが死んだ時、人々はキリスト教が言うところの奇跡として、

きっとゾシマはキリストの如く三日後に死から復活するであろうと期待します。

ところが 聖なる老僧ゾシマは、死後奇跡を起こすこともなく、

その遺体は腐食していきました。

奇跡は起きなかったのです。

話しは前後しますが、

いよいよ死の床に臥したゾシマは、アリョーシャを世俗に還俗させます。

若いアリョーシャには、もっともっと世俗の中で揉まれ苦労し、

修養を重ねる必要があると考えたからです。

その時ゾシマはアリョーシャに、

「神が愛した民衆を愛してください」と言い残します。

つまり宗教において最も根源的なもの、本質なものは、

神秘や奇跡でもなく,

勿論教義でも、教会組織でもなく、

ただひたすらの

「小さき者たちへの愛」ではないでしょうか。

それは親鸞の、ただ一心に   

「南無阿弥陀仏」と祈りなさい、と

同じことだと私は考えます。

宗教の最も根源にあるのは、人間への共感,そして、

共に生きる人間愛です。

それが瓦解して行った時、人間がどうなるのか。

実は、これからの未来社会において、

私達が、しつかりと認識しなければいけないのは、このことです。

次回、それを書きます。

        つづく。

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この記事を書いた人

作家。映画プロデューサー
書籍
「原色の女: もうひとつの『智恵子抄』」
「拝啓 宮澤賢治さま: 不安の中のあなたへ」
映画
「どこかに美しい村はないか~幻想の村遠野・児玉房子ガラス絵の世界より~」

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