夏目漱石作「道草」を読み終えた。
やっぱり、やっぱりそうかと思う。
私はこの随筆を読んだ時、なんとなく、
漱石は解(答え)を見つけたな、と思いました。
「それから」「門」「行人」「こころ」そして「道草」に至るまで、
それらを書きながら漱石は、
人間とは何か、自分とは何か、そして生きるとは何か、さらに、
いかに生きるべきかの解を追求し続けました。
「それから」や「門」では、人間の中の感情や欲求、欲望の自然性や、
自己の自然性と拮抗する他者との共同社会の不条理の世界を、
いかに人間は解決したらいいのか。
しかし「門」で寺の門はとうとう開かれず、漱石はその前で立ち尽くすしかなかった。
つまり漱石は宗教においても、
解(悟り)を得ることができなかったということです。
解を探してさ迷い続ける中、
漱石は次の「行人」で、
狂人の一歩手前まで突き詰めた、
自分の内面世界を書きます。
つまりは脳神経が巻き起こす自己世界をにメスを入れ、
脳神経細胞が引き起こす脳現象から人間を切り開き解析していきました。
当時は脳科学などありませんが、
主人公一郎を苛んだのは、
遮断なく回転する脳神経の世界です。
そして「こころ」では、否応なく自分のこころの自我の暴走に乗っ取られる人間の苦しみを書き、
人間における倫理とは何かを追求します。
ただ、おそらくこの頃から彼に、
ある解、ある光が見えてきたのではないか、と、私は考えます。
そしていよいよ自分そのものを、小説の中で晒し続ける覚悟のもとに書いたのが、
この「道草」ではないかと思います。
「硝子戸の中」には、
いよいよそうせねばならんなぁ」と
いう漱石の呟きが見られます。
「硝子戸の中」39章で彼は
もっと卑しい所、もっと悪い所、もっと面目を失するような自分の欠点を、つい発表しずにしまった、と書いています。
そしていよいよ彼は自分の自伝とも言える「道草」で、
自分を丸裸にしてしまいました。
ただ、それが自然主義文学と決定的に違っていたのは、
自然主義文学の作家達のような自己懺悔ではなく、
丸裸に自分を晒し切った漱石が、作家として、
巷間の人々と共に生きるという、
立ち位置を見つけた事です。
神経症的に他者を忌避するのでもなく、
知識人として尊大な厭世者になるのでもなく、
ひとりの生活者として生き、書く、という解です。
一作ごとに書きながら解を追求する漱石は、同じように
「罪と罰」「白痴」「悪霊」「カラマーゾフの兄弟」を書き進み、
ついには、民衆へのささやかな愛へと行き着いたドストエフスキーに、どこか似ています。
「道草」は、厄介な人間関係や煩わしい世間との付き合いをひきうけながら、
「世の中には片付くなんてものは殆どがありゃしない」と
呟きながら生きる主人公(漱石)がいます。
それは、否応なく自分の業に振り回され、
他者との確執や社会の矛盾の中を、
疲れ果てながらも懸命に生きる人々に対する、共感に解を得た、
漱石の優しい眼差しです。
胃潰瘍の大病を患いながら、
硝子戸一枚を隔てて冷静に世の中と人間をみている漱石がいます。
解決不能な相談を受け、
どうにも答えがみつからない彼女を町角まで見送り、
「そんなら、死なずに生きてらっしゃい」と言う漱石がいます。
どうしようもない、
しがらみを背負い生き続ける人間の為に、その人々の為に、
漱石は書き続けたのだと、思います。
さて、いよいよ明日最後の作品「明暗」です。
実は私は女として、
漱石の小説を厳しい眼で見張りながら、読んできました…笑!
ただ途中で漱石が亡くなり失筆した「明暗」には、
私なりにというか、
女である私ならではのある推理が浮かびます。
漱石は「明暗」で何を書こうとしたのかを、
次回展開したいと思います。
つづく。

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