朝目が覚めると、どうしても不安が来ます。
原因の一つは、遺伝的に不安神経症的な傾向を持っている事です。
ある種の完璧症です…苦笑!
そんなわけで、不安の時は良寛の、のほほん、のほほんを思い浮かべます。
それとは別に最近、自分の77年の人生を見渡しで見ると、
まー私の人生は、何の為にあるのか、わからなくなるのです。
一生懸命に、人間の幸せとはを、考え言葉にしてきたけど、
社会が進歩、人間も進化すると思っていたら、そうは甘くなかった。
世の中はすさみに逆流してしまい、
まるで政治はヘドロ状態です。
経済も、
このまま放ってはおけない心境です。
そして私自身も迷ったり間違えたりあちこちで、頭をぶつけながら、
いつも懸命に自分を立て直していきてきたが、
人間の世は複雑怪奇で、自分がやってきた事が、果たして何かの稔りへとなるのだろか。
自分としては、ある一貫性を歩いてきたつもりだけど、
それがつもりならば、
いったい自分とは何ものなのだろうか、と落ち込みます。
その落ち込みの中で、中野孝治先生が書かれた本の中に、
良寛が同様に悩んでいる詩がありました。
良寛が、ある夜半ふと目覚めた時、
己の心と会話を交わし、
我とは何か、人ては何か、仏法とは何かを、問い続ける中での
「嗟 吾胡為する者ぞ
(あゝわれなんするものぞ)
之に対し 一に長吟するのみ
(これにたいし、いつにちょうぎんするのみ)
と詠んでいるのです。
先生は、己とは何ぞやという疑問にたえずとりつかれ、問い続け、
一つの境地に安住することがなかった、だからこそ、
良寛を信ずることができる、と書いておられます。
あーそうかぁ、良寛も迷い続けてきたんだと、この文をよみながらなんとなくわかりました。
そして、
昨日ふと浮かんだのが、
「草のように生きる」です。
それをそのままノートに書きましたら、
草のようの,うの字が間延びしてしまいました…笑!
でも、これはこれで面白い。
この言葉は良寛の言葉ではなく,不肖ながら私の言葉です。
この不肖ながら、という言葉は、フーテンの寅さんがよく使っていた言葉です…笑!
草のように生きる。
草というのも,大いなる自然の為せる一現象なら、私もまた自然の一現象で、
良寛のように、寅さんのように、
地べたの上で風にゆれながら、
気楽にやろうと、ま、
そういうことです…笑

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